永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

パーフィットの火星旅行の話・再論

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パーフィットの火星旅行の話・再論

【要約】

1~10段落(78頁)

パーフィットの火星旅行等の自己分裂に関する奇妙な話が起こりうる理由は、「私が存在する」といえる二つの別の基準が存在するからである。

 

11~14段落(82頁)

基準の一つは体と心の連続性であり(第二基準)、もう一つは、その目から世界が現実に見え、その体だけが叩かれると痛く、その体だけを現実に直接動かせる唯一の人物、という基準である(第一基準)。

 

15~18段落(83頁)

火星で作られた私が成立する時点で地球の私が破壊されていれば私は問題なく火星に行けたのに、地球の私が残存してしまうと火星の私は私でなくなってしまうのは不思議ではないか。この問いに対する答えは、不思議だがそういうことは起こりうるのだ、というものだ。この二人が会話をしたのちに、地球の私が破壊されると、私が火星の側に移動する、などと言うことがあり得ようか。これに対する答えは、二つの基準の独立性を認めるならば、奇跡が起こらない限りあり得ない、というものだ。

 

19~22段落(86頁)

第一基準は満たすのに第二基準は満たさない事例を想定することはなぜ困難なのか。それは、単に想像力の欠陥ではなく、想像される「現実性」と現実の「現実性」が、想像の世界では区別不可能だからであろう。

 

 

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【感想】

1.火星旅行

私自身が火星旅行をする場合の分岐線ケース(地球の私も誤って生き残ってしまうケース)で、地球に残った私が死んだ後、火星の私が物理的に生成された場合(火星でのデータの取得から人体の生成まで数日かかり、その間に、誤って地球に残った方が死ぬ場合)、両者とも〈私〉であることはありうるのか。

 ありうるとして、地球の私の死亡時刻と火星の私の誕生時刻を徐々に近づけると、両時刻が一致したとたん、それはありえなくなるのか。

 

2.知らないうちにスキャン

「転校生とブラックジャック」に、気づかれないうちに勝手に体をスキャンされたら複製体が〈私〉になってしまわないかと心配する生徒Kを先生が笑う話があったが(文庫版120頁)、勝手に体をスキャンされても、スキャン体が〈私〉になる可能性はあるのか。

 

3.〈私〉がロボットだった場合

①ロボットである〈私〉が、助手を使って、自らの意思で、自らのスイッチを切り、抜いたメモリをオリジナル含めて100個複製させ、100体のロボットに装着し、100体同時にスイッチを入れた場合、〈私〉が22番目のロボットR22に目覚める確率は1/100か(以下も含め、「確率」という言葉が使えるのは、これらの実験は、完全にプライベートな(自分以外には結果が分からない)実験として、繰り返し行うことができるからです)。

②100体のロボットのスイッチを、R1からR100まで順に、1時間ずつ(あるいは1年ずつ)時間差をつけてスイッチを入れた場合でも、〈私〉が目覚めた時その身体がR22である確率は1/100か。

③助手が気まぐれでスイッチを入れるのを70体でやめた場合、〈私〉は30%の確率で死んでしまうのか。

④あるいは、助手が勝手に100体を200体に変更した場合、〈私〉は、たとえば150体目に目覚めることはあるのか。

⑤ ①で、メモリの内容を少しずつ変えて、人格を少しずつ変えた場合、それでも〈私〉が22番目のロボットR22に目覚める確率は1/100か。

業田良家機械仕掛けの愛」第1巻のロボット刑事の話で、ICチップの複製が実はいくつか作られていて(そのことをロボット刑事は知らない)、1つだけフナムシにしたら、それでも罰したことになるのだろうか(これは存在論ではなく倫理学の問題でしょうか)。

 

4.単純な2分裂

①単純な2分裂のケースで、分裂前の私は、分裂後もどちらかが〈私〉だと確信するだろうが、それはなぜか(確信する理由)。

②「今この肉体が〈私〉なら5秒後も10秒後もそうである」、という経験則から、「この肉体が分裂したら少なくともどちらかが〈私〉になる」という事実は導けるのか。

③単純な2分裂のケースで、分裂後のどちらも〈私〉ではない、ということは起こり得ないのか。分裂後のABのうち、Aが〈私〉でなかったのであれば、Bが〈私〉でないこともありえるはずであり、であれば、AもBも〈私〉ではないことがありえても良いはずではないか。

 

5.脳の入れ替え、戻し入れ

〈私〉の脳を別人の脳と入れ替えたらそれでも〈私〉か。仮に〈私〉ではないとした場合、さらに翌日、元の脳に再度入れ替えたら(戻し入れたら)〈私〉に戻るか。

 

6.身体の入れ替え、戻し入れ

・脳を含む〈私〉の身体全部を別人のそれと入れ替えたらそれでも〈私〉か。仮に〈私〉ではないとした場合、さらに翌日、元の身体全部に再度入れ替えたら(戻し入れたら)〈私〉に戻るか。

・これはそもそもどういう想定なのか。

(ここまで来れば、結局、「転校生とブラックジャック」文庫版のあとがきで永井さんが挙げている例と重なってしまいますが、こちらの方が、何が問われているかが分かりやすい人もいるかと思い、例として挙げてみました。)

 

7.自問自答

(1)〈私〉の持続について、次の説があり得る。

 「未来の人物に関して、今、「その人物は〈私〉か?」という問いは立てることができない。なぜなら〈私〉とは〈今〉にしか成り立たない現象だからである。未来の人物に関して今問える問いは、「その人物は、その未来の時点において、(記憶や身体的連続性などから)今の私との連続性を主張するか(あるいは主張する権利があるか)」にとどまる。それ以上の問いは、今は、立てることができない。立てられそうに思うのは錯覚で、そもそもが偽の問題設定なのだ。」

(2)しかし本当にそうか。本当にそうなら、分裂後、右が自分なのか左が自分なのかが問えないのと同様、明日朝目覚める(あるいは5分後の)私は〈私〉か、とも問えなくなってしまう。明日拷問を受けることが怖いのも、(明日のその人物と今の〈私〉を同一視することから生じる)単なる錯覚になってしまう。しかし残念ながら、明日拷問を受けるのは、間違いなく、その時点の〈私〉なのだ。

(3)拷問を受ける前にすべての記憶を失ったら、それでもその人物はその時点の〈私〉か。しかし、仮に、すべての記憶を失ったその人物が〈私〉ではなかったとしても、そんな特殊なことが起こらない場合には〈私〉は持続しており、その持続を支えているのが(持続の条件が)記憶だ、ということが明らかになっただけではないか。繰り返しになるが、そんな特殊なことが起こらない場合には、〈私〉はやはり持続していると言うべきなのだ。

(4)こう考えると、少なくとも、通常の人生において、〈私〉は持続する。それがなぜかと言えば、おそらくは、通常の世界においては「世界の持続」が強く働くがゆえに、独在性が、瞬間瞬間という形では現れず、時間的連続体である「人生」全体に対し、そのひとまとまり全体に対して、なぜかこれ、という形で現れるからだと思う(これは、〈私〉の自覚(この体だけ実際に痛い・・など)のためにもいくらかの時間幅は必要、という事実とも相性が良いと思う)。ただその「強い持続」を記憶喪失とか分裂とかで壊すことができれば、独在性もその都度奇妙なふるまいをすることになる、ということではないのか。

8.〈私〉の持続に関しては、このような不思議な話がいくらでも考えられます。これらには、想像される「現実性」と現実の「現実性」の区別不可能性の問題や、69頁~で言われた「他時点の私は同じ〈私〉を共有するとは言えない」という問題が関係していると思います。 

(それにしても、「想像される「現実性」と現実の「現実性」が、想像の世界では区別不可能」という言葉には(事実には)打たれるものがあります。)

※ところで、原文には想像される「現実性」と現実の「現実性」が、想像の世界では区別不可能」などと書かれていないのですが、なぜ私は、このような要約にしたのだろう?理由は不明だが、良い要約のような気がする(いや、悪い要約かもしれない)。

結局、われわれは〈私〉が何なのかを理解できないのかもしれません。それゆえに、「〈私〉の持続」も理解できず、このような、矛盾としか思えないようなことが起こるのかもしれません。

つまり、これらの不思議は、手品の不思議(どこかに種があるはずなのに、それがどこにあるのかどうしてもわからない不思議)ではなく、魔法の不思議(どこにも種がないのに理解できないことが起こる不思議)なのかも知れません。であれば、種を探す方向で探究しても意味がないのかもしれませんね。