超越論的統覚と前反省的自己意識
【要約】
1~2段落(94頁)
第一基準で同一性を保ちながら第二基準で別人になるケース(体だけが二つになり、さらにその体ごとに来歴の記憶が異なる、という想定)は考えられない。二系列の記憶は必ず一つに統合されてしまうからである。二つの身体の来歴はただ一つの私の記憶になるほかはない。
3段落(96頁)
これは第一基準がはたらいた後にのみ第二基準ははたらきうるということを意味している。実在性は現実性を根底にして成り立つ。ところがその現実性(第一基準)は自分を実在性(第二基準)の内部に位置づけるというアクロバティックな運動を開始するのである。それが「超越論的統覚」のはたらきである。
4~5段落(96頁)
統覚はすべての表象を「一つにまとめる」といわれるが、実は、まとめられる以前に一つしかない。それを表象したのはかならず私なのだから。そもそも一つしかないものを、その内側から、同種の他のものがありうるかのように、つまりおのれ自身はその単なる一例であるかのように秩序づけるのが「まとめる」の真の意味である。われわれはみなもうすでに秩序づけられ終わった世界に住んでいるので、通常の自然的態度においてこのプロセスが意識されることはない。しかし実のところは、このプロセスを経ることなしに他者などという不可思議な、矛盾を孕んだ存在者の存在が認められる可能性はない。
6~8段落(97頁)
カントの分析的な統一性とは、私の用語で言えば、現実的に一つであることであり、総合的な統一性とは、実在的に一つであることである。超越論的統覚とは、むき出しの第一基準から出発して、第二基準をその内側から作り出して自己自身にもあてはめて自己を実在化し、さらに第一基準自体をもその(第二基準の)内部に収めて実在化するはたらきのことである。
9~14段落(99頁)
サルトルの前反省的自己意識は、それが存在の仕方の内容である以上、〈実存〉主義ではなく、本質主義の概念というほかない。
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【感想】
超越論的統覚とは、むき出しの第一基準から出発して、第二基準をその内側から作り出して自己自身にもあてはめて自己を実在化し、さらに第一基準自体をもその(第二基準の)内部に収めて実在化するはたらきのことである!!!
永井哲学の真骨頂ですね。