永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

記憶について

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記憶について

【要約】

1~5段落(128頁)

「翔太と由美の修学旅行」の思考実験で、最初に提起されている問題は、どの時点で翔太は自分を由美と自覚するか、という問題である。翔太と由美を各人たらしめている心の中核は記憶であるが、私の答は、そもそも1ピースごとに思い出が入れ替わっていくことはあり得ない(考えてみることさえできない)、というものである。

 

6~7段落(130頁)

思い出す記憶は必ず自分の(固有名Aの、ではなく、単に「自分の」)記憶である。自分が体験したという形をとって現われなければそもそも記憶であるとはいえない。そして、翔太は、思い出したその自分の記憶を、直観ではなく推論により、由美の記憶であると知る。

 

8段落(131頁)

記憶に浮かぶ情景を、「由美が、由美という主体として体験していた」というそのこと自体は思い出せない。なぜならそれは、その時点に特に生起したことではなく、生起したことを捉えるための捉え方そのものの通奏低音的な基盤であり、思い出される対象ではないからである。

 

9段落(131頁)

もし翔太が、それを含めて由美の修学旅行体験を思い出す(すなわち記憶している)ことができたなら、その瞬間、翔太は、少なくとも「心」にかんするかぎり、瞬時にして由美そのものになってしまうであろう。ゆえに、記憶を「1ピースごとに」入れ替えることはできない。

 

9段落(131頁)

注:記憶は(実は時間も)、本来事象内容(リアリティ)ではない「今体験している」という事実を、一個の事象内容(リアリティ)として、世界に起きる事実の一部として組み込み、それを記憶の対象としなければ成立しない。これにより「その時の今の体験」のような捉え方が可能になり、複数のそれらをつなげていくことも可能になる。われわれは体験内容そのものを記憶しているのではなく、体験するという体験を対象化して記憶する。そうすればこの今にかんしても、あらかじめそういう捉え方の可能性を持ち込むことができる。

 

10~11段落(132頁)

翔太である〈私〉がいつの時点で由美に移るか、が次に問われている問題であるが、そんな時点はありえない。もし第9段落で述べたように翔太が瞬時に由美になったとしても、そのことにより世界が、翔太が〈私〉である世界から由美が〈私〉である世界に変化する(あるいはしない)というようなことは起こりえない。仮に由美も同時に翔太になったとしても、「繋がりの原理」により、ただ翔太は翔太で由美は由美であるだけのことである。

 

12段落(133頁)

日本語の第一人称の表現は「通奏低音的基盤」のある部分をその意味として含んでしまっている。たとえば翔太の通常の第一人称表現が「おれ」であるとすれば、その記憶を由美が自分の記憶として思い出すのは困難であろう。

 

13~15段落(133頁)

「翔太と由美の修学旅行クオリア逆転版」の思考実験で、翔太の思い出す由美の記憶の空の色が赤かったとしても、由美がその色を体験していたかどうかはわからない。それを知る方途は絶たれている。

 

16段落(134頁)

自分の場合にはその方途は絶たれていないように見える。いま見ている空の色といま思い出している過去に見た空の色を比較できるからである。それは、空という実体の存在が前提され、その前提を色以外の要素で確認できるからである(ただしこの点は自他の場合も同じ。ただ、自他の場合は、自他のクオリアの差異が認知できない)。

 

17段落(135頁)

ウィトゲンシュタインの「自分だけが感じる独特の感覚を指す自分用の語(感覚E)」にはこの不変の要素がない。その感覚以外にEを特徴づけるものは何もないから、これまでと違って感じられたらそれはもはやEではなく、ゆえに、「Eが」これまでと違って感じられるようになった、ということはありえない。(通常の痛みや痒みにはこの不変の要素があるから「痛みを痒く感じるようになった」と言うことができる。)

 

18段落(136頁)

しかし、Eのような特殊な場合を離れても、同じ問題は常に存在している。いま見ている空の色といま思い出している過去に見た空の色を比較できるのは、「空という実体の存在が前提され、その前提を色以外の要素で確認できるから」だけではない。加えて、「今思い出している「過去に見たあの空の色」」と「過去に見たあの空の色」が同じ色であることが疑われていないからである。E同様、「過去に見たあの空の色」とは今思い出せる「過去に見たあの空の色」のことでしかありえない。ここに懐疑の楔を打ち込む方法は存在しない。翔太も、由美と自分の色のクオリアが違うと思うとき、修学旅行期間以外の自分のクオリア記憶の正しさを疑っていない。

 

19段落(137頁)

大森荘蔵の「立ち現われ一元論」の哲学的洞察はこの点にある。それはつまり、「いま現に立ち現れているもの」と「それがそこに立ち現れているもとのもの」とを(正しくそれが立ち現れているいるかどうかを調べようとして)比較してみるということがついにはできない、ということの洞察なのである。

 

20段落(137頁)

しかしひょっとすると、「今思い出している「過去に見たあの空の色」」と「過去に見たあの空の色」が実は違う色だったかもしれないではないか(一般に、見ているときの色と思いだしているときの色が違うことからも推定できる)。重要なことは、それでも色は少しも変化しないということである。見た色と、それを思い出した色は全く同じでなければならない。ありうる変化のすべては時制の変化(「見ている」と「見た」)によって表現されており、見られる内容の変化には決してとどかないからである。見ているときの色と思いだしたときの色に、たとえどんなにその印象が違っても、「あかい」と「あくかった」のように別の名を与えることはできない。

 

21段落(138頁)

それと同様に、自分が現実に感じている痛みと他人が感じているらしい痛みとが、現に感じる痛みと全く感じられない痛みという意味で、どんなに違っても、私はいたい、と、彼はいだい、のように、人称以外の内容にまでその違いを届かせて呼び分けることはできない。それが「語りの原理」の根幹にある世界把握だからである。

 

22段落(139頁)

「いま思い出している昨日感じたあの痛み」と「昨日感じた痛みそのもの」とは「じつは」まったく違う感じだったのではないか、と疑うことには意味がない。そんな「じつ」はどこにも存在しない。その違いは「である」と「であった」の違いであり、それに尽きる。だからこそ、昨日感じた痛みと今日感じる痛みとのクオリアの逆転が可能になる。このことはまた「繋がりの原理」の根底には「語りの原理」が存在することを意味している。

 

23段落(140頁)

これに対して自他のあいだでは、私が過去に感じた痛みと現在におけるその想起との関係に相当する、比較の根拠になる同一性がないため、私が感じる痛みと他者が感じる痛みが違う感覚であったと発覚する状況はありえない。結果として、自他のこの関係は、過去に感じた痛みと現在感じる痛みとの関係にではなく、過去に感じた痛みと現在におけるその想起との関係に類比的なものなって(いわば昇格して)しまう。他者の感覚をめぐるわれわれの言語ゲームは、この昇格を基盤にして営まれている。

 

24段落(140頁)

脳や神経が特定の状態にあることと意識が存在することが同じことである場合にはゾンビは不可能になり、しかしこの二つは別の(たまたま事実的に連関しているに過ぎない)ことなのだから、ゾンビは可能である(と、一面ではこのように言える)。

 

25段落(141頁)

しかし、自分を「私」という語を使って指し、一般に他者にかんしてゾンビの懐疑を立て得る主体であることとそこに「意識がある」ことを「同じこと」なのだと考えれば、ゾンビは不可能になる。疑いたい中身は相手が他人であることに尽きており、それ以上に付け加えるべき内容は存在しないからである。

 

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【感想】

1.過去の感覚と他者の感覚の違い 

(1)過去の感覚(クオリア以外の不変の要素がある場合)

痛みの記憶を根拠にして、「あの時の痛みとこの痛みは違う」、と言うことができる。ただし、クオリア記憶の正しさにはさらに根底的な根拠がある。「過去に感じた痛み」と「今思い出している過去に感じたその痛み」とが同一とされている、ということである。

すなわち、繋がりの原理(主観的連続性の必然的成立)の根底には、「連続」と言える根拠(過去の私と今の私を同一と見る世界把握=語りの原理)がある。過去の私と今の私を並列に並べられるからこそ、その連続性が成立しうる。

(2)過去の感覚(クオリア以外の不変の要素がない場合)

ウィトゲンシュタインのEの例がこれにあたる。

クオリア記憶を根拠にして、「あの時のEとこのEは違う」、と言えそうだが、言えない。Eについては、痛みと違い、クオリア以外の不変の要素がないため、違えばEではなくなってしまうから。ただし、違いの認識はできる。そしてクオリア記憶の正しさにはさらに根底的な根拠がある。「過去に感じたE」と「今思い出している過去に感じたE」とが同一とされている、ということである。

すなわち、繋がりの原理(主観的連続性の必然的成立)の根底には、「連続」と言える根拠(過去の私と今の私を同一と見る世界把握=語りの原理)がある。過去の私と今の私を並列に並べられるからこそ、その連続性が成立しうる。

(3)他者の感覚

同一状況下であっても、私が感じている痛みと彼が感じている痛みが同じかどうかは分からない。クオリアの比較ができないからである。結果として、自他のこの関係は、過去に感じた痛みと現在感じる痛みとの関係にではなく、過去に感じた痛みと現在におけるその想起との関係に類比的なものなって(いわば昇格して)しまい、私が感じている痛みと彼が感じている痛みは同一とされる。他者の感覚をめぐるわれわれの言語ゲームは、この昇格を基盤にして営まれている。

 

2.しかし実際、人は、他人の、あるいは過去の、未来の、クオリアについて、今・私が現に感じているこのクオリアと、何か違いがあるように感じ、それを言葉で表現したいと思う。これも実は無内包の現実性の内包化の一例なのだ(「誤診」20,21参照)。