探究のパラドクス
【要約】
1~5段落(148頁)
「何であるか」という本質の探究は、「知っていることは知っているのだから探究の必要はないし、知らないことは知らないのだから何を探究すべきかさえ分からない(また、かりにそれを探り当てたとしても、それを探り当てたかどうかも分からない)」という探究のパラドクスにさらされる。これに対しプラトンは「本当は知っているのだが表面上は忘れているように見えることを「思い出す」ことによって探究はなされるのだから、それは可能である」と答えた(想起説)。探究される本質は、プラトンにおいては後にイデアとなっていき、アリストテレスはイデア論を批判すると同時に想起説も否定して、そうした個人的な直観などではなく、人々のあいだに広く通用している通念(エンドクサ)を収集することから探究を開始すべきと考えた。私は想起説に妙味を感じる。物事の本質理解は、今使われている言葉の意味の中に潜在的(インプリシット)に含まれていて、それを使って何かを語っている当人にはつかんで取り出すことができない。
6~7段落(150頁)
前章で、私は、「生起したことを捉えるための、捉え方そのものの通奏低音的な基盤」が記憶の本質そのものに含まれていることを「思い出した」ことになる。ここで「思い出す」とは「潜在化している通奏低音的な基盤を思い出す」ことだとすると(想起説)、私はまさにそのやりかたを使ってそのこと自体を思い出したことになる。
8段落(151頁)
「生起したことを捉えるための、捉え方そのものの通奏低音的な基盤」というあり方は、言葉の意味の中に潜在的に含まれているとされた本質の理解にもそのまま当てはまる。だからそれをつかんで取り出すことが想起することになる。
9段落(151頁)
たとえば、ある朝目覚めてみると青と赤が逆転していた場合、「世界」や「自分の眼」のような「現状」の異変が疑われ、「記憶」や「言葉の意味」のような「現状を判定する基盤」の方が疑われることはないはずである。「記憶」と「言葉の意味」の、この意味での類似性に注目してほしい(ただし、基盤の深さは、記憶も意味によって支えられざるを得ない以上「言葉の意味」のほうがずっと深い(記憶を疑う際に言葉の意味の不変は疑われないが、その逆は考えられない))。