永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

タウマゼイン語法としての偶然性と可能性

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タウマゼイン語法としての偶然性と可能性

【要約】

1~6段落(154頁)

哲学の語法では、こういう場合(=前節のゾンビの例)、意識の存在は脳状態を含む身体的・物理的事実と偶然的に繋がっているにすぎない、と言う。「偶然」とはそうでないことが可能である、という意味である。プラトンアリストテレスも哲学は「驚き」から生じたと言ったが、その驚きとは、いつも同じように在るごく普通の在り方が、めったに起きない不思議なことのように見えてしまう、そういう驚きのことであり、言葉を変えれば、通常は必然(そうでしかありえない)と思われていることが偶然(そうでないこともありえたのに、なぜかたまたまそうである)のように見えてしまう、ということでもある。これが固有名としての哲学(古代ギリシャの伝統を引き継ぐ哲学)のものの見方である。

 

7~9段落(157頁)

すべてを偶然的と見るとは、言い換えれば、すべてを奇跡と見ることである。ただ、奇跡にも程度がある。そこで何がなされたかが他の可能性との対比によって分かる奇跡と、そういう可能性さえも考えられない(他の何でありえたのかも分からない)奇跡である。

 

10段落(158頁)

たとえば「諸々の物理定数はなぜこの値なのか」という問いの場合、他の可能性は他の値という形ですでに与えられている。

 

11段落(158頁)

〈私〉とは何かという問いは、二つの問い方がありうる。一つは、他者たちもまた、彼ら自身の観点に立てば同じ意味(第一基準)で〈私〉であることを前提に、自分を「私」と呼ぶ自己意識的存在者はたくさんいるのに、こいつだけが実際に〈私〉であるのだが、その例外的な生き物はいったい何なのか、といった問い方である。ここで問われているのは、あくまでも可能性と対比された現実性である。

 

12段落(159頁)

この問い方の背後に存在する本当の驚き(タウマゼイン)は、特定の可能性と対比されない現実性(これ)への驚きである。そして、そもそも「これ」は何か、という問いが、もう一つの問い方である。

 

13~15段落(159頁)

このように、「~である」こと(本質)の水準での対比(一つ目の問い)が尽きれば、残るのは「~がある」こと(実存)の水準の対比である(二つ目の問い)。なぜおよそ無でなく、それが何であれ、これがあるのか、という問い(実存驚愕)。その実存の問いと固く結びついて「それは何か?」という本質の問いが問われ、そのときはじめて、「それは何でないか?」という、ありうる(しかしふつうの意味ではありえない)可能性との対比が導入されることになる。哲学における本質探究の根底には実存の驚きが隠されている。タウマゼイン語法を使った本質探究は、この究極の驚きをかく在ることの驚きへと変換する際に生まれた。