永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

最も貧しいものこそが比較を絶して豊かである

目次はこちら

 

最も貧しいものこそが比較を絶して豊かである

【要約】

1~2段落(174頁)

ここには、「「一般的なもの」のはたらきによって消えてしまう「言えない」何かがそれでも存在しはするのでなければならない」という問題と、「もしそうなら、彼が「言えない」と言っているそれは、ある意味では言えてもいる」という問題の、二つの問題がある。彼の議論が伝わる限り、言えないはずの言おうとしていることもまた言われてしまっていることになる。

 

3段落(175頁)

「言えないはずの言おうとしていることも、このように言われるほかはないのだ」ということこそが、彼が言おうとしたことであったのだから、前段落の指摘をヘーゲルは喜んで認めるだろう。

 

4段落(175頁)

しかしそれは、彼が言っていることではなく、その語りにおいて示されることである、のだから、やはり言えないことは在る。彼の語りにおいて言われなかったことは残り続ける。言えなかったことは、ただ在るだけで、何であるかは「ない」。だからそれはたしかに最も「貧しい」ものではあるが、その貧しさは本質(何かであること)の貧しさにすぎず、実存(ともあれ在ること)の貧しさではない。本質の見地からすれば最も貧しいものこそが、実存の見地からは最も豊かなものであることになる。なぜなら精神の現象学のすべては、ともあれ在るその最も貧しいものの上に築かれ、どこまで行ってもその外に出ることはできないのだから。ヘーゲル的視角とそれを逆転した視角との対立は、累進構造図において最上段を認めない立場と認める立場の対立に対応している。

 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

【感想】

ちょっとピント外れかも知れませんが、言えないはずのことが言える、とは、喩えて言えば、

「〈 〉」を隣の人に渡す時に、隣の人も「〈 〉」を持っているがゆえに、必ず「〈 〉」が重なってしまい、「《 》」になってしまうが、その重なってしまった「《 》」から、そっと、渡された「〈 〉」を外せば、もともとの自分の「〈 〉」が残り、結果として渡されたと言える、

というイメージなのかしら。

ストレートに言ってしまえば、

①純粋なロゴスでは無内包の現実性を表現することはできない。

②しかし、言語によって伝えることはできる。現にこの本でできている。

③なぜなら、言語は純粋なロゴスではなく、その内に無内包の現実性を予め取り込んだロゴスだから。

ということになるのでしょうか。