永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

A系列とB系列の真の意味

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A系列とB系列の真の意味

【要約】

1~3段落(201頁)

「この文を書くという出来事は、未来だったが現在となっており、もうすぐ過去になるだろう」という「むきだしのA変化」は、「この文を書くという出来事は、過去においては未来であるが現在においては現在であり、未来においては過去である」と書かれると、A系列が二重に使われることにより端的性がなくなり、「むきだし」ではなくなっている。ここで、たとえば「未来において過去」は、未来を現在と想定した場合の過去、であり、「どこでも現在である」と言っているわけではないからB系列ではない。だから、ある種のA系列表現として許容せざるをえない。このことのうちにも、現在の端的さとその動きとが矛盾するさまが見て取れる。

 

4~5段落(202頁)

B系列にも同じ問題がある。「桜田門外の変坂下門外の変の(二年)前である」という関係は、実際には、現実の現在の視点から過去におけるA変化を見ているので、まずは「桜田門外の変が起きてから(二年経って)坂下門外の変が起きた」となるが、それを外部の視点から抽象的に見れば「坂下門外の変桜田門外の変の二年後である」ということになる。現在が二重化を超えて多重化され、どこでも等しく現在と見なされて、結果的に特権的な現在が消滅すれば、そこにB系列が成立する。B系列とはA系列が無限の多重化によって端的な領域分割を喪失してできたもののことだ、と見ることができる。

 

6段落(203頁)

「より前-より後」の方向とは、このような意味で、あらゆる時点に可能的な現在を想定した場合の抽象的な動性のことであって、この意味では、時間的動性は概念的にはむしろB系列に保存されており、A系列が保存しているのはむしろ現在の端的性のほうである、ともいえる。その場合、A系列に付随する動性(現在が過去に「なる」のような)は、概念的に見れば、二つの物差しのずれの運動を語っているにすぎず、実質的にB系列の「より前」「より後」の「より」と同種の機能しかもたないことになる。この文を書いている現在が過去になるとは、書き終わった時点から見れば書いている時点はより前であるということにほかならないからである。

 

7段落(203頁)

問題の根源は、可能な現在の存在にある。可能な現在は、視点の取り方によって、たんに仮想上のものにすぎないともいえるし(この場合、現実の現在は「すべて」である(極限の豊かさ))、現実の現在とまったく同等のものともいえる(この場合、現実の現在の特権性はそもそもなかったことになる(極限の貧しさ))。これはもちろん、累進図の最上段を認める立場と認めない立場の対立に対応している。

 

8~10段落(204頁)

人称にも同じことがいえるが、違う点もある。人称と時制の違いはなにか。人称の場合、累進図の横関係が縦関係に変換されるとき(「あなたも、あなたにとっては私」)、それはたんに他者とのコミュニケーションにおける規約として承認させられているだけであるのに対し、時制においては、未来の一時点(その時にとっての今にすぎなかったはずの一時点)が、実際に、現実の今になり、現実の今が、過去の一時点(その時にとっての今にすぎない一時点)になるのである。つまり、極限の豊かさに対する驚き(タウマゼイン)は、人称においては、どの私でもそれと同じ驚きが起こりうる、ということによってのみ消え去るのに対し、時制においては、それに加えて、その可能性が現実化する(!)、という事実によっても消え去るのだ。