認識論的問題設定を退ける
【要約】
1~3段落(233頁)
同じ問題を認識論的に提示しなおすとこうなる。マクタガートにおいては、同じ一つの出来事が過去でも現在でも未来でもあることと、そのうちの一つでしかありえないことの矛盾として表れていたその同じ問題が、認識論的問題設定においては、予期と体験と想起という内容も形態も異なる三つの出来事が同じ一つの出来事の三つの捉え方でもありうる、という「矛盾」として表れているのだ、と。体験は別としても、予期と想起には、それ自体のうちに(内在的性質と志向的性質という)矛盾した二つの性質が内属しており、それが過去や未来にかんする懐疑論を生み出すわけだが、それらはマクタガートが提示した矛盾の別の現れ方なのだと見るべきである。
4段落(235頁)
存在論的問題設定と認識論的問題設定では、前者の方が本質的な捉え方である。10章で述べたとおり、ヘーゲルとフレーゲは、「今」や「私」の存在という存在論的な問題を、「感覚的確実性」(ヘーゲル)などを根拠として、感覚や体験のあり方という認識論的な(あるいはむしろ心理的な)問題と混同したが、これは、独在性の問題を私秘性の問題と混同したということである。この捉え方では、最も根本的な問題がすでに解決済みの問題として前提されてしまう点が一番の問題である。
5段落(236頁)
体験の直接的確実性(ヘーゲルの言う「感覚的確実性」)を基準として、1年前の予期がこの体験を予期していたとなぜいえるのか、と問うことはできるが、こちらを基準にしてしまうと、そういう種類の問いが無自覚に前提してしまっている、独在性にまつわる問題(時間についていえば、現在という不可思議なものの存在それ自体にまつわる問題)というより本質的な問題が隠蔽されてしまう。
6段落(236頁)
「予期や想起も、またそれ自体としては予期や想起という出来事の体験であるのに、それとは別のある一つの出来事の予期や想起でもある」という矛盾は、結局、どの時点もその時点においては現在であるという、現在一般の問題にすぎない。これがなぜ問題を生み出すのかといえば、現在(今)にかんしては、この端的な現在と現在一般との対立、という問題が成立せざるを得ないからである。
7段落(237頁)
端的さと一般性の対立という問題は、現在にかんしてしか起こらない。体験において、端的な体験と体験一般の区別をしようとすれば、それは必ず、端的な現在と現在一般の区別か、またはこの私と私一般の区別か、どちらかに依拠せざるをえないことになる。いすれにしても、問題は現在や私の存在論的問題のほうへ移行せざるをえない。そして、累進構造はただ存在論的問題設定においてだけ発生するのである。
8段落(237頁)
というわけで、少なくとも時間については――じつは自我や世界についても同じことなのだが――ヒュームやベルクソンやフッサールや大森荘蔵・・・のような問題設定ではなく、マクタガートのような問題設定こそが本質を突いている、といわざるをえないのである。