永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

「+と-」には「正数と負数」の意味と「加法と減法」の意味がある

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「+と-」には「正数と負数」の意味と「加法と減法」の意味がある

【要約】

1段落(241頁)

「「動く現在」とその他者」と「私と私以外の人」との類比はなりたつが、その動きの内部における「「端的な現在」とその他者」と「私と私以外の人」との類比はなりたたない(時間的変化の固有性)。「+と-」の二種類の解釈(「正数と負数」という解釈と「足し算と引き算」という解釈)を、二つの物差しがずれていく話と関連づけることが、この類比がうまくいかないことの理解に役立つ。「+と-」の二種類の解釈を違う解釈だとみるのがA系列で、同一視するのがB系列である。すなわち、負数は0からの引き算にすぎないとは見ずに、0からであるという点において、他の数からの引き算とは全く違う特別の意味を持つとみなすのがA系列である。

 

2段落(241頁)

「現在は未来だった(過去における未来である)」とは、「負数(-)が0になるには何かを足す(+)しかない」という意味であり、「現在は過去になるだろう(未来における過去である)」とは、「正数(+)が0になるには何かを引く(-)しかない」という意味である。「正」と「足す」では「+」の意味が、「負」と「引く」では「-」の意味が違っており、0であることと正数や負数であることは矛盾するが、0であることと加法や減法の結果であることは矛盾しない。本来A系列は、端的な領域分割をその特徴とするが、現在が「過去において未来」であるという捉え方は、「過去」と「未来」という二つのA規定のあいだに視点の移動があり、この特徴(端的さ)が失われている。しかしだからといって、これはB系列であるとは言えず、複合的A系列であるにすぎない。〈私〉に置き換えれば、すべての人が対等に〈私〉だと言ってはおらず、〈私〉が他の人である場合をいちいち想定しているにすぎない。

 

3段落(243頁)

マクタガートはいわば「ある時点は0でも負数でも正数でもある」と言っているわけだが、この時点が0(つまり現在)であるとき、彼の言う負数と正数(つまり過去と未来)が実は減法と加法(つまりより前とより後)のことなのであれば、彼の言っていることには何の矛盾もない。

 

4段落(243頁)

問題の時点が端的に過去や未来である場合は、これに加えて、0そのものも「何も足さず何もひかない」という意味に理解する必要がある。これは「同時」ということであり、どの時点もその時点と同時なのだから、過去や未来がその意味で「現在」であったとしても、何の矛盾もない。

 

5段落(243頁)

とはいえ、0を特権的な位置と解するのをやめて、「何も足したり引いたりしないこと」と解することは、「現在」を「その出来事と同時」の意味に解することであり、「その出来事」を発話時点等の何らかの事象内容的に特権的な出来事とみなすことでA系列はB系列に還元されるのだから、重要である。このことを私は、そこをかりに0とみなすことだと理解したが、B系列的世界像が成立した後では、それこそが本来の0(現在)の意味となる。

 

6段落(244頁)

そうなれば当然、(演算の意味で、)どの数にも引き算の結果(-)でもあれば足し算の結果(+)でもあれば足しも引きもされない結果(0)でもある、という両立不可能な(!)はずの三つのタームがすべて述語づけられることになる。このことは(正数と負数の意味で)負数か正数か0のどれかでなければならないという事実と不整合である(!)。このテーゼに対して、その数からの引き算の結果であるのはより大きい数にとってであり、その数への足し算の結果であるのはより小さい数にとってであり、足しも引きもされない結果(0)であるのはその数自身にとってであって、それぞれ視点が異なるのだから別に両立不可能なことはない、と反論されると、そのより大きい数にかんしても同じ両立不可能性が成り立ち、それはどこまでも続くから、やはり矛盾がある、と再反論される。もし以上のことを論拠に、数には矛盾があるから数は実在しない、とマクタガートが主張したのだとしたら、それは全く馬鹿げているだろう。

 

7段落(244頁)

もちろんそうではない。二重性があると言った「中心的課題」の二重目はここから始まる。上の比喩ではその混用が話にならないほど馬鹿げているとみなされた、負数・0・正数、と、引き算・そのまま・足し算、とが、時間においては現実に混用されているからだ。なぜなら今は実際に動くからだ。動くことにより、どの時点も〈現在〉になりうる。なりうると言っても、本当の現在(=現在における現在)ではないのではないかと言われても、ここで新たに出てきた「現在における」の「現在」にかんしても同じことが言えてしまう。これにより、どの数も「引き算の結果(-)でもあれば足し算の結果(+)でもあれば足しも引きもされない結果(0)でもある」ことが、すなわち負数(-)でも正数(+)でも0でもあることだ、と、ほんとうに言えてしまう。つまり、どんな出来事(時点)もより前でもあればより後でもあればその時でもあるということが、すなわち過去でも未来でも現在でもあるということである、と。

 

8段落(245頁)

もちろん、そのような相対化された任意の(=どこを基点としても成り立つ)A系列とは別に、端的で絶対的なA系列がある、とつねに言いつづけることはできる。しかし、その端的で絶対的な現在は、現実に動く。そして、現在が動くとは、どんなに時間が経過しても行きついたところはいつも現在である!ということであり、これを加法の比喩を使って言うなら、どんなに足し算をしても結果はいつも0である!ということなのだから、そこには、どこをとってもそこを基点にして何も足したり引いたりしないこと(±0)がすなわち0である、という構造を次々と産出しつづけるという摩訶不思議な仕組みが内在するのである。

 

9段落(246頁)

それを前提にするなら、当然、「未来である」ということの意味は「足す」ということにしかなく、「過去である」ということの意味は「引く」ということにしかないことになる。だからここで哲学するためには、驚き(タウマゼイン)の方向をこれまでとは逆にし、多くの可能な現在のなかで、なぜここが現実の現在なのか、にではなく、それとは逆に、なぜいつでもそこが現実の現在である(ようにできている)のか、に驚かねばならない。マクタガートの問題の格別な素晴らしさは、それがこの二つの驚き(タウマゼイン)を同時に含んでおり、しかもその二つのことが矛盾もしているため、さらにそのことにも驚かねばならない、というそのとてつもない複合的構造にある。

 

10段落(246頁)

時間の経過(現在の移動)という事実によって、端的で絶対的なA系列は、単なる可能性の問題としてではなく、現実的に相対化されて相対的なA系列になり、なりつづける。である以上「哲学探究第十三回の執筆」というこの出来事は、その現在から見て、現実に現在でも過去でも未来でもあることになる。

 

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【感想】

1.3段落

時間が止まっているとしたら矛盾はないのだが・・。

 

2.4段落

領域分割と演算の対応。過去=より前、未来=より後、現在=同時。

 

3.時間の矛盾

(1)6段落

どの時点も、視点を変えれば(「~にとって」を入れれば)、過去でも現在でも未来でもありうる(事実①。喩えればどの数も、加法・そのまま・減法の結果。この事実自体が矛盾①)。

しかしどの時点も過去か現在か未来でしかありえない(事実②。喩えればどの数も正数か0か負数)。

事実①と事実②は不整合(矛盾②)。

矛盾①②とも馬鹿馬鹿しい(=一般的に解されるマクタガートの「矛盾」が馬鹿馬鹿しいと感じられる理由)。

 

(2)7段落

しかし静的時間像においても、〈現在〉を導入すれば(事実③)、「とっては」を無限回重ねても〈この今〉には到達しない、という矛盾がある(矛盾③)。〈私〉と同種の矛盾。

〈現在〉が動くことにより、どの時点も、実際に、過去でも現在でも未来でもありうる(事実④。喩えれば、「どの数も、加法・そのまま・減法の結果」という事実が「どの数も正数か0か負数」とイコールになってしまう。この事実自体が矛盾④。今が動くことによる矛盾)。

 

(3)8段落

〈現在〉が動くということから、どんなに時間が経過しても行きついたところはいつも現在である(事実④´。喩えれば、どんなに足し算をしても結果はいつも0である。この事実自体が矛盾④´)。

 

(4)9段落

静的時間像における驚き(〈今〉の驚き=矛盾③)と、その〈今〉が実際に動く驚き(矛盾④④´)。 

 

4.〈私〉が単なるM(←本名)であることを想定することはたやすい。しかし、〈今日〉が単なる2017年11月8日であることを想定しようとしても、昨日や明日のように、〈今日〉だった日や〈今日〉になる日の想定になってしまい(これは言わば〈昨日〉や〈明日〉だ)、〈今日〉とは無縁な単なる2017年11月8日をどうしても想定できない。これはなぜか。単なるMだって《私》ではあらざるを得ないように、単なる2017年11月8日だって昨日や明日であらざるを得ないのだ、は答えになるのか。

 

 5.〈今〉が動くことと〈私〉が持続することはどういう関連があるのだろうか。同じことなのか、どちらかがどちらかの原因なのか、それとも無関係なのか・・。

しかしそもそも「〈私〉が持続する」とはどういうことなのだろう。どういう事態を指して、「〈私〉が持続する」と言っているのであろうか。何を根拠に、〈私〉は、「〈私〉が持続している」と思うのだろう。

昨日も今日も明日も、この体を内から生き(た・る・るだろう)、という事態を指して、なのか。