永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

(無題)

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第14章 〈端的な現在vs.動く現在〉vs.〈現実の現在vs.可能な現在〉


(無題)
【要約】
1段落(249頁)
前章で到達した「いつでもそこが現実の現在である」という「これまでとは逆の驚き」によれば、現在は2015年であるばかりか1908年でも2174年でもあることになる。それでも現実の現在は2015年だ、といくら言っても、たしかに2015年においてはそうだが、1908年においては1908年が現実の現在である、と言われることになる。出来事や時点の側を基準にするなら、「哲学探究第十四回の執筆」というこの出来事は、現在であるのみならず、過去や未来でもあることになる。いや、それでも現在においては現在ではないか、といくら言っても、たしかにその現在においてはそうだが、他の現在においては(その同じ出来事が)過去や未来でもある、と言われることになる。

 

2段落(250頁)
人称の場合にかんしても、永井均が私でもあなたでも彼でもあり、私は、永井均であるばかりか、安倍晋三でも徳川家康でもあることになる。「この私は永井均だ」といくら言っても、「あなたにとってはそうでも、まったく同様に、安倍晋三さんにとっては安倍晋三が、徳川家康にとっては徳川家康が、それぞれこの私なのですよ」と言われることになる。

 

3段落(250頁)
「現在(今)」に、この今と動く今の異なる二種の(矛盾した)リアリティがあるのと同様、「私」にも、この私と各人の私との異なる二種の(矛盾した)リアリティがあって、われわれは実際に、この二種のリアリティの矛盾を生きている。マクタガートの言うように現在という矛盾をはらんだ存在者を含む時間がそれゆえに実在しないことになるのであれば、私という矛盾をはらんだ存在者を含む人間(person)もまたそれゆえに実在しないことになる。

 

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【感想】

3段落

「この今」と「動く今」vs.「この私」と「各人の私」