永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

小説や映画の世界

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小説や映画の世界

【要約】

1段落(275頁)

ポイントは、「「端的な現在」の外部からの嵌入」である。たとえば、時系列に沿った小説について、突如としてある頁を開いてそこを読み始めれば、そこが現実のA変化の起こる場所となるようなものである。あるいは、今上映されている箇所がないような仕方で上映されている映画(ただしこれは、考えることはできるが想像することはできない)について、突如としてある箇所から見始めれば、そこが現実のA変化の起こる場所となるようなものである。われわれの現実もじつはそうなっているのかもしれない(これは私の心を捉える数少ない懐疑論の一つである)。

 

2段落(275頁)

この場合、そこが読まれる(見られる)ということは、その小説(映画)のストーリーにはまったく関与しない、完璧に外在的な出来事である、という一点が哲学的に重要であり、これが無内包の現実性の意味である。それはいかなる内包の変化によっても根拠づけられない端的な現実性なのであって、ライプニッツが神は諸々の可能世界から一つを選んで存在を与えたと語る際の、またカントが「存在する」は事象内容的(レアール)な述語ではないと語る際の、「存在する」の意味でもある。この場合の「存在」は、(アリストテレス的な「質料-形相」の枠組みからは独立していても)なお本質の現実態という意味を保持するトマス・アクィナスの「エッセ」よりも、本質の外から端的に付与されるイブン・スィーナー(アヴィセンナ)の「ウジュード」に近い、と私は感じている。

 

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【感想】

この「小説や映画の世界」という節は、「余談」とは言われているものの、〈私〉と〈今〉の関係を示唆して、結構重要なのではないかと思います。

質料・形相論との対比。

質料・形相論は、しょせん本質の分類に過ぎない、と言われている。

トマス・アクィナスにおいて、存在は本質から独立したが、それでも、本質の現実態という意味を含む。完全に本質から独立した存在を、イブン・スウィーナー、ライプニッツなどは考えた。

「全-無」図式を言語で厳密に語ろうとしても、どうしても「語る」側が残り、「部分-部分」図式になってしまう、ということか。