永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

端的な現実の現在も動く

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端的な現実の現在も動く

【要約】

1段落(287頁)

端的に現在であるという事実は、いかなる関係にも立たず、いかなる因果関係にも組み込まれえず、そもそもその事実が有効にはたらく出来事連鎖はありえない。それは何ともつながっていない、文字通りむきだしの端的な事実なのである。ここで、人称や時制が機能するためには(様相自身が機能するためにも)様相が必要不可欠、という117頁の議論を思い出してほしい。

 

2段落(288頁)

もし関係に立ちうるとすれば、それはただ可能性との関係だけである。しかし、たんに可能性であることと端的に現実であることの差異は実在的(リアル)な差異ではないので(無内包)、言葉で言いあらわすことはできない。

 

3段落(288頁)

端的なA事実は、A変化(=B関係)という関係の中にも入ることができない。それは決して何かに「なる」ことなどはなく、「なる」や「より」といった関係を含むその事態の全体が、端的に現在であったりなかったりできるだけである。これに対してA変化(=B関係)は、「なる」や「より」といった実在的(リアル)な(=内包を有する=事柄の中身にかんする=事象内容的な)差異によって成り立っており、したがって言葉によってその差異を表現することが問題なくできる。

 

4段落(288頁)

とはいえ、現実の現在といえども、「なる」関係・「より」関係の外に立つことはできない。すなわち、端的な現実の現在もまた現実の過去になる。

 

5段落(289頁)

端的な現在は動きとは無関係である、というのは、それが動かない、という意味ではない。動きを含むいかなる内包とも関係なく、端的に成立する、ということなのだ。それはちょうど、無内包の単なる現実性である独在する私が、反省性とも私秘性とも無関係に成立するといっても、それらがないというわけではないのと同じことである。つまり、どの現在も動くように、端的な現実の現在もまた動く。つまり、現実の過去になる、と理解されることになる。

 

6段落(289頁)

時点や出来事を固定してそこから見るより、針の位置に立って(現在を固定して)そこから見る方が自然であり、ここから「いつでも現在である」という表象が生じ、この道筋を経て「現実の動く現在」というものが実在することになる。

 

7段落(290頁)

このとき重要なことは、現在が動くと見る場合には、それが時間の経過ということであって、出来事はあくまでもその動きと相対的に動くことになるが、最初から出来事の側が過去方向へ動くと見る場合には、時間の経過はその動きそのものが表現していることになる、ということである。この二つの見方がどちらも可能である(いやむしろ必然である)ことが、すでに述べた、時間における加法・減法の可能性(足せば足した数に、引けば引いた数になる)とその不可能性(どんなに足しても引いてもゼロである)の二重性に対応している。現実の動く現在は、その内部に端的な現在とその過去や未来を含むという側面と、いつも現在で、それぞれそこを出発点として他の可能性との対比がなされるという側面とが合体して成立していることになるだろう。累進構造図の横の関係があらわす時制と、縦の関係があらわす様相を横断する「現実の動く現在」という表象は、このようにして成立する。

 

8段落(291頁)

その動く現在に属する諸々の可能な現在もまた、現在ではある以上、端的な現実の現在の持つ無内包の現実性(独在性)というきわめて特殊な性質を、必ずそれぞれ持つとされなければならない。そうでなければ、それらはそもそも現在(今)という意味を持ちえないからだ。こうして、無内包という内包という概念が成立することになる。これはふつうの意味ではありえないことだ。なぜなら、そのきわめて特殊な性質を持たないがゆえにこそ、それは現実の現在ではなく端に可能な現在に過ぎないことになったのだから。しかし、まさにこの構造こそが累進構造ということの意味なのである。

 

9~10段落(291頁)

他我問題が同種の問題であることは、「我」を「端的な現在」に、「他」を「可能な」に入れ換えてみればわかる。他我問題は、他人の意識の存在は外からは知り得ないから実はないかもしれない、といった問題ではない。かりに他人の意識状態が外界の事物と同程度に外から丸見え(一致した公共的観察が可能)だったとしても問題は増えも減りもしない。他人の意識の存在についてもまた、必然的に正しい二つの矛盾した主張がある。一つは、他人なんだから意識はないに決まっている(あったら私だ!)というものであり、もう一つは、他人なんだから意識はあるに決まっている(意識を失ったり取り戻したりできるのだから)というものである。この対立を超えて、本当はあるかないかの問題を立てても原理的に答えはありえない。「他人の意識」という観念は、(現実の動く現在に属する)可能な端的な諸現在と類比的な構成物なのである。たとえば、1862年1月15日午前8時前後の数分間がじつは「現在ゾンビ」であったとの想定に意味はない。言えることはただ、過去なんだから現在であるわけがない、という自明な事実と、現実の時間なのだから必然的に現在であった、という別の自明な事実だけである。

 

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【感想】

1.5段落で、「動き」もまた内包の一つなのだ、と言われてる。

2.6段落で、「いつでも現在である」という表象=現実の動く現在の実在が、「針である現在の側を固定して、その現在という場に、ある時点や出来事がやって来ては去って行く」という見方から生ずることが書かれている。

3.7段落で、現在が動くという見方が時間における加法・減法の可能性に対応し、出来事の側が動くという見方がその不可能性に対応すると言われている。

4.8段落で、「無内包という内包」という構造こそが累進構造の意味だと言われている。言い換えれば、無内包を次々と内包化する運動の痕跡が累進構造なのである。