永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

現実の動く現在

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現実の動く現在

【要約】

1段落(292頁)

前章のアキレスとカメの対立図式は、それが端的な現在と動く現在の対比がそのまま現実の現在と可能な現在の対比に重ねられている点で、短絡的であったことになる。単なる可能な現在とは別の、現実の動く現在というものの独自の意義が見落とされている。

 

2段落(293頁)

現実の動く現在が実現していくそれぞれの現在は、端的な現在ではないという意味で可能な現在ではあるのだが、たんに可能であるといった抽象的な規定を超えて、①ある特定の時点に1回だけ、②必ず実現されねばならない、という、厳格な限定が付されている。可能な動く諸現在の中から、この限定により、現実の動く現在が析出される。

 

3段落(293頁)

現実の動く現在には、〈A変化=B関係〉という等置は成り立たない。上記の「限定」により、現実の動く現在は現実の端的な現在とリアルにつながっているため、A変化=B関係がどこでも成り立つのではなく、どの時点(出来事)においても、1回だけ実現することになる。

 

4段落(294頁)

この表象により、時間=現実の動く現在=端的な一回性のA変化=具体的なA系列、の実在性を感じることができるようになる。すなわち、諸々の可能性のなかでただ一つ実現したこれのことであるという表象をもつことになり、「時間」=現実の動く現在は、一種の固有名のように感じられることになる。

 

5段落(294頁)

アキレスとカメの闘争は、お互いに包み込みあうA事実とA概念のあいだの、どちらを打ち止めにするかをめぐる闘争なので、当然、「現実の動く現在」と「可能な動く現在」のあいだでも起こる。

 

6~7段落(295頁)

アキレス(A事実)とカメ(A概念)の闘争は、端的な現在と動く現在の対立においては、A事実が端的な現在として・A概念がその動性(変化の仕方)として現れるが、現実の動く現在と可能な動く現在の対立においては、A事実が現実の動きとして・A概念が動きの概念として現れる。

 

8段落(295頁)

同じ対立は、二種の動く現在のあいだにも、二種の端的な現在のあいだにも成立する。現実性と可能性のあいだのこの対立と、現実的な場合にも可能的な場合にも起こる動く現在と端的な現在のあいだの対立が輻輳すること、このことが、「私」や「世界」の問題と「現在(今)」の問題の違いである。

 

9段落(296頁)

現実の動く現在は、現在が動く際の動き方がC系列やその他の実在的諸連関によって限定されており、たんなるA概念ではない。この違いは、累進構造図の上下と左右の対立として現れている。これと類比的な問題は人称にもある。時制と人称との類比に関連して、時計と人計という比喩を使って、最重要の論点を繰り返しておきたい。時計は今見ることしかできないが、これをいつでも今見ることしかできないと解釈することができる。そしてそう解釈するか否かとは独立に、時計の作りによっては二時間前の針の位置を見ることだってできる、という反論がありうる。人計は私が見ることしかできないが、これをだれでも当人が見ることしかできないと解釈することができる。そしてそう解釈するか否かとは独立に、人計の作りによっては他人の心の中を見ることだってできる、という反論がありうる。いずれも、前者の問題と後者の問題を混同しないことが何より重要である。

 

10段落(297頁)

A系列は端的な現在とその向きという二つの要素から成り立っていた。向きとはどちらに動くかということであり、それがすなわち〈B関係=A変化〉である。それはいわば年表に沿って目盛りのついた物差しが動いているようなものなのだが、第二の要素である向きが時間の向きである限り、あらかじめ端的な現在の存在を必要としてしまうから、可能な動く現在が成立する。こうして成立した「動く現在」という表象が、最初の現実の端的な現在と結合し、しかもC系列や実在的因果連関の援助を受けると、「現実の動く現在」が成立する。端的な現在はまず現実的でそれが可能化するが、動く現在はまず可能的でそれが現実化する。

 

11段落(298頁)

マクタガート解釈という観点からいうと、時間に、すなわちA系列に矛盾があるという彼の議論は、本来は当然、この二つの要素のあいだに矛盾があるという主張でなければならなかったはずだ。ところが、彼の実際の議論は必ずしもそのようには展開せず、現実性と可能性のあいだの矛盾として解釈可能なかたちに変形したのである。とりわけ「書き換え」以後の彼の論述は、現実の動く現在と可能な動く現在のあいだの「矛盾」を語っているとも解釈可能になる。その変化には哲学的必然性がある。

 

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【感想】

 

8段落

①現実性と可能性の対立(現実の(端的な現在or動く現在)vs.可能な(端的な現在or動く現在))
②端的な現在と動く現在の対立((現実のor可能な)端的な現在vs.(現実のor可能な)動く現在)

 

9段落

「A事実vs.A概念の対立」問題と「『A事実or概念』内部の事実」問題、の対立。