永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

時間が経過する――現在が動く

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時間が経過する――現在が動く

【要約】

1段落(298頁)

もし現在(今)が無内包の現実性なのだとしたら、〈私〉が安倍晋三になったとしてもなったとは決して分からないのと同じように、それが動いても動いたとは分からないはずではないか。

 

2段落(299頁)

一面から言えば世界の中に実在せず、他面から言えば世界が丸ごとその内部に入ってしまう(つまりその外部がない)ようなものがどうして動くことができようか。

 

3段落(299頁)

まったく特別の時点である〈今〉は動くだけではなくあまねく動く。あらゆる時点が必ずその特別の一点になるのなら、それは少しも特別の一点ではないことになるのだから、あってはならないことではないか。

 

4段落(299頁)

いや、この時点だけが現にそれになっている、それが特別なのだ。

 

5段落(299頁)

しかしその「現にさ」を外部から捉える方法はなく、反復にならずに表現する方法もない。

 

6段落(300頁)

正数・負数と加法・減法の比喩を使うなら、端的に0であるような数はありかつない、ということである。ひとつには、0は+3から見れば-3であらざるをえないからであり、他方では、すべての数が自身から見れば0だからである。

 

7段落(301頁)

しかしこの矛盾によってこそ、われわれが「時間」として表象しているものが可能になる。動けないはずのものが動く、ということはむしろ必要なことなのだ。

 

8段落(301頁)

その「動き」の本質は、形式的な要因と内容的な要因が考えられるが、形式的な要因のほうが重要だ。「無内包という内包」の成立である。表現を変えれば、「まったくの特別さ」「端的な0」をたんに形式として保持する方法の発明である。これはすなわち「おのれを移動する針と見立てる」ということである。「おのれを移動する針と見立て、継起する出来事連鎖の側を、その内部のつながりを根拠にして、外部にある客観的な文字盤のごときものとして再構成することに成功した」(265頁)のである。

 

9段落(302頁)

さっきの現在や来月の現在を、端的な現在と同じように現在であると捉えることは真に驚くべきことであって、この同じさのほうを基本にする語り方の開発こそが言語(ロゴス)の成立の根底であったはずである。人称における一人称とならぶ時制における現在の発明である。そこから「動く現在」が成立し、「いつも現在であり続けている」という表象が生まれることになる。

 

10段落(302頁)

この世界像を基礎にしてはじめて記憶というものが可能になったはずである。その本質的特徴は次のような三要因の結合にあるのではないかと思う。第一に思い出す側も思い出される側も同じく「現在の私」というあり方を共有している(過去の「現在の私」の主体的な体験を現在の「現在の私」が客体化して「思い出す」)のだが、第二に、その際、体験したことと思いだしたことの同一性が(二つの対象として比較されることなしに)前提され、第三に、連続性の観点からいえば、新たな記憶はそれ以前の記憶連続体を基礎にしてその上に何かを付け加える形で成立する、ということである。そういう仕方で、過去と現在は、どんなに足しても0であることと、足される内容が足されるごとに増えていくこととの、二つのつながり方でつながっていることになるわけである。

 

11段落(303頁)

私が安倍晋三になれないのは、並び立つ諸主体は(「私」の第二基準によって)その記憶内容によって個別化されるからであった。もしなったら、なったという事実が必然的に消滅するからなれないのである。現在が動いて新しい現在になるときにも、「唯一の原点」そのものの転換が起こってはいる。さっきは唯一の原点だったはずの時点が今はなんと客体として眺められている、という形で。にもかかわらず、なったという事実は消滅しない。記憶の連続性によって、その内容のほとんどは変わりなく継続し、もともとの内容はほぼすべて丸見えだからである。もしそういうつながりがなければ、主体の転換が起こったとき、安倍晋三になる場合と同様、そう「なった」ということが成立しないだろう。また逆に、内容上の増殖だけで主体の根本転換が起こらなければ(ただし、われわれは主体の根本転換なしに変化するといったことを、そもそも想像も思考もできない)、それはそもそも時間の経過ではないだろう。もちろんここにも要因間の独立性はあるから、それらが連動しない場合の思考実験をするのは容易である。いきなり不連続な記憶が成立してしまったら、とか、逆に300年後に今の記憶をもってしまったら、とか。

 

12段落(304頁)

以上のことは、本来は、記憶だけでなく、記憶の外に前提される外界の事実の成立を議論の射程に入れなければならない。

 

13段落(304頁)

ともあれ、動けないはずのもののこの動きこそが、(現在が過去に、などの場合に言われる)A系列的な「なる」であり、その動きを動く現場の外部から眺めた姿が(桜田門外の変坂下門外の変の関係などについて言われた)B系列的な「より」であって、その二つには本質的に対立する点はない。

 

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【感想】

 

9段落

過去の現在も未来の現在もこの今と同じ現在とみなすことから、「いつも現在であり続けている」という表象が生まれる。つまり言語が「いつでも今」という表象を生む。

10段落

上記世界像が「記憶」を可能にする。即ち言語が記憶を可能にする。

記憶の本質的特徴は次の三要因の結合

①思い出す側も思い出される側も同じく「現在の私」というあり方を共有している(過去の「現在の私」の主体的な体験を現在の「現在の私」が客体化して「思い出す」)

②その際、体験したことと思いだしたことの同一性が(二つの対象として比較されることなしに)前提されている

③新たな記憶はそれ以前の記憶連続体を基礎にしてその上に何かを付け加える形で成立する

 

そして、過去と現在は、

・どんなに足しても0(①②)と

・足される内容が足されるごとに増えていく(②③)

という二つのつながり方でつながっている。

 

11段落

記憶のつながりがなければ、主体の転換が起こったとき、安倍晋三の場合と同様、そう「なった」ということが成立しない・・・とのことだが、その場合でも、「なる」のか「ならない」のか、という問いは有意味だろう。

明日拷問を受ける囚人が、「今晩お前の記憶を完全に消すから、明日拷問を受けるのは、お前ではあるが、お前とは別人だ」と言われて安心できるのか、という問題。