永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

実在的(リアル)な差異と現実的(アクチュアル)な差異

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実在的(リアル)な差異と現実的(アクチュアル)な差異

【要約】

1~6段落(22頁)

例えば痛みの、第0次内包も、第1次内包も、第2次内包も、実在的(リアル)な内包であるが、転んだ人が私であれば現実に痛く、私でなければ現実に痛くない、という重大な差異は実在的(リアル)な内包の差異ではない(痛みの、無内包の現実性)。出発点におけるこの差異こそが重要である。

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【感想】

  例えば痛みの、第0次内包、第1次内包、第2次内包の違いは、転んだ人が私であれば現実に痛く、私でなければ現実に痛くない、という重大な差異を何らかの方法で無化する際の、その方法の違いと言えるのではないでしょうか。

  具体的には、いや誰でも痛いのだという方法(第0次内包)、誰でも「自分だけ痛い」のだという方法(第1次内包)、誰も「痛く」などないのだという方法(第2次内包)で、存在論的差異は消えてしまう。

これに対し永井さんは、2020/1/15のtweetで次のように述べています。

「その方法の違い」とは言えないように思います。第0次内包という観念は無内包の現実性の概念(「転んだ人が私であれば現実に痛く、私でなければ現実に痛くない」という種類の差異)の一般化を経てしか成り立たないのではないか、という疑いがあるので。

そして、これが哲学探究3第6回で、さらに次のように展開されています。

ゾンビがそれを欠くとされる(その意味での)クオリアなるものは、じつは平板な(平面的な)世界理解の内部にはそもそも存在できず、いびつな(立体的な)、すなわち独在性をともなう世界理解においてはじめて存在するものなのだが、まさにそれゆえに、それが概念化・形式化された際には、その非存在が疑われうることにならざるをえない。しかし、その存在と非存在の差異はそもそもが無内包の現実性にかんするものなので、(それをあえて語ってしまう)言語が介在しないかぎり、外から見れば在っても無くても同じことであり、どこにも表れ出てこない。