永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

問題設定のやり直し

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問題設定のやり直し

【要約】

1~2段落(25頁)

すべての生き物に意識状態があるのになぜ現実にはある一つの意識しか感じられないのか。なぜ一つだけ現に感じられる意識が存在するのか。この差異は何が生み出しているのか。「脳が意識を生み出している」という余分な前提を取り除けば、私の提起したい問題はこのように定式化できる。

 

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【感想】

この問いをこれほど明晰に言語化した人が史上いたでしょうか。

でもなんでこんな簡単な問いを、史上誰もクリアに打ち出せなかったのだろう(問い③)。

ABCDEFGHIJの10人の人がいる。Zが、AからJの頭を順番に叩く。ABCDFGHIJを叩いたときは痛くも痒くもないのに、Eを叩いたときだけ痛い、という事実が端的に(忽然と)ある。これはなぜか。(問い①)

Aを叩けばAが痛い。Bを叩けばBが痛い。・・・Jを叩けばJが痛い。これらはすべて当たり前のことだ。理由は生物学が説明してくれるだろう。しかし、Eを叩いたときだけ「現に」痛い。この事実は何学が説明してくれるのだ?(問い①)(ここで、「Aを叩けばAが痛い」ことをはっきり認めている、という点が重要だ。そこを否定しているのではないのだ。即ち、「Aを叩けばAは痛そうな顔をし、痛そうな声を出すが、本当にAにあの「痛み」が生じているのかは決して分からない」と言っているわけではないという点に注意していただきたい。)

不思議ではないか。Eとそれ以外に、生物学的に、物理的に、あるいは何的にでも、およそ実在的に、どういう違いがあるのだ。忽然とあるこれは何なのだ。(問い①)

言葉を換えてこう言っても良い。「ある生命体がある。その生命体が自分である場合とそうでない場合とでは(その生命体が自分である世界とそうでない世界は)、生物学的に、物理的に、あるいは何的にでも、およそ実在的に、何がどう違うのか。(問い①)」

史上誰も、問い①の(解ではなく)意味が理解できなかったと言うことだ。

史上誰もが、問い①に対し、「それは私がEだからだ」と答えて満足したと言うことだ。

「私がE」と「Eを叩いたときだけ痛い」とは同じことで、何の答えになっていないにもかかわらず。

例えばZが、Eの口から発せられた「なぜEの頭を叩いたときだけ痛いのだ」などという(Zにとっては)とぼけた問い(問い②)(=だれでもが問い得る問い)に対し、「それはお前がEだからだ」と答えることとは意味がまったく違うのだ(なお、「口から」と「だれでも」の関係については「哲おじさんと学くん」75話参照)。

問い①と問い②は180度違う問いであるにもかかわらず、ロゴスは、あまりにも自然に、問い①を問い②に変換する(私というだれでもの一員が、私という個人の口から発した問いだと理解する)。問うた人にも気づかないくらい自然に(ちょうどウキが、水中ではどんな向きであったとしても、浮かび上がった水面では、自然に、素早く、くるっと、どうしても同じ方向を向いてしまうように)。問い①をしっかり捕まえて、さあ考えようとしたとき、捕まえたつもりの問い①は、もう、手の中で、問い②に変わっている。

これが問い③に対するある方向からの解ではないか。 

つまりこの方向からは、問い③に対し、それが本質的に不安定な問いだから、と答えられる。時間的に安定せず、複数人間(かん)での共有も拒む、本質的に「しっかり捕まえる」ことのできない(=分析を拒否する)、不安定で孤独な問い。

問い①に解はないが、この問いの意味を徹底的に考え抜くことで問い③に答えることができ、問い①と問い②と問い③の相互関係も自ずと明らかになると、本書を通じて、永井さんは言っていると思います!

(蛇足1)

蛇足ですが、問い①を問う視点と問い②を問う視点の違いは、永井哲学を理解するうえでとてもだいじだと思います。

たとえば、永井瞑想論は、問い②を問う日常の意識状態から、自然に問い①が問えてしまう見地に身を置くことが(あるいは立ち「帰る」ことが(文庫版「西田幾多郎」文庫版付論末尾から3行目参照))とりあえず目指されていると理解すれば良いのかもしれません。

(蛇足2)

問い①と問い②の違いは、要するに、問うている主体が一個のパーソンであることをあらかじめ認めるか(問い②)、認めないか(問い①)という違いだと言えます。認める立場に立てば、問い①は馬鹿馬鹿しい問いにしか感じられない。

換言すれば、〈私〉が存在する前の立場に立てば〈私〉の存在は奇跡だが、〈私〉がすでに存在した後の立場に立てば、誰にでもある中心性を抽象化して奇跡を捏造しただけにしか見えない、ということだと思います。

(〈私〉が存在する前の立場に立つとは、無中心的な世界を、どこからでもない視点から見る、ということであり、これはむしろ純客観的な、科学者の視点とも言えるのですが、実は人間にとってはこれが難しいのかもしれません。そして、ここに、永井哲学の理解しにくさがあるのかもしれません。)

これはちょうど、マクタガートの指摘した時間の矛盾が、時間の存在(〈今〉の存在とその移動)を認める立場に最初から立ってしまえば馬鹿馬鹿しいものにしか感じられないということに対応していると思います(本書206頁、244頁参照)。(「〈私〉が存在する前の立場に立つ」ことに対応するのが、「時間は動くが〈今〉が存在しない世界」や「〈今〉は存在するがそれが動かない世界」の想定です。)

問い①のほうは原点の存在についての驚きで、マクタガートのほうは原点が存在し且つ動くということについての驚きなので、その点は異なりますが、いずれにしても、今問題にしている当のものを前提にしてしまっては問いたいことが問えない(驚きは消えてしまう)という点は同じで、ここが肝心だと思います。

問い①を問える人は、マクタガートの指摘した時間の矛盾もありありと感じられるのではないでしょうか。

(蛇足3)

「しっかり捕まえれば変質する」ことが必然なのは、捕まえる(考える)道具であるところの言語(論理)の本質上、捕まえる対象であるところの無内包の現実性を、何らかの種類の内包としてしか捉えられないからでしょう。