永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

(無題)

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第4章 繋がりの仕組みによる〈私〉や〈今〉と、むきだしの〈私〉や〈今〉

 

(無題)

【要約】

1段落(57頁)

〈今〉は動くが〈私〉は動かない。それはなぜか。

 

2段落(57頁)

〈私〉はたとえ現実に移動しても移動したことにはならないから移動できなかった。ならば〈今〉も、現実に移動しても移動したことにならないのではないか。

 

3~5段落(57頁)

〈私〉の移動はそれを証拠立てる記憶の移動をともない得ないのに(記憶をになう心が移る側にではなく移られる側にあるから)、〈今〉の移動はなぜそれをともない得るのか(記憶をになうものが移る〈今〉の側にではなく心の働きという移られる出来事の側にあるとも言えるのに。だとすると、心に次々と記憶が起こるとしてもそれらがなぜ繋がっているのかは謎であり、それ以前にそもそもほんとうに繋がっているかどうかは決してわからないはずだから)。

 

6段落(60頁)

そうすると、存在するのは今の記憶だけなのだ(存在するのは私の意識だけなのだ)と言いたくなるが、そう言ってみたところで、その今(私)とはいったいいつ(だれ)なのかが決まらないことが問題なのだ。

 

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【感想】

3~5段落に対し、「〈私〉は持続するから」、は答えになっているのだろうか。いや、その持続自体が問われているのだからなっていない。

6段落は、中心性と無内包の現実性の区別。