永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

その前に復習を

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第5章 「私である」ことが成立するための異なる二つの基準

 

その前に復習を

【要約】

1~2段落(76頁)

前回の議論をまとめると次のとおり。

①繋がりの仕組みによる〈私〉や〈今〉と、むきだしの〈私〉や〈今〉とがある。

②後者の「むきだし」のほうは、他の諸々の存在者とまったく違う異様なあり方をしており、「実在する」と認められるための形式に従っていないので、じつは存在しない。しかしこれらこそが世界の現実性を初めて作り出している。

③他時点の私は、今の私と同一人物であるにすぎないから、私ではないかもしれない、といえるのと同様、今にいる他者は、私の今と同時点にいるにすぎないから、今にはいないかもしれない、といえる。(③の後半は、私と今の非対称性から、正しいとは限らない。)

 

3~5段落(76頁)

〈私〉や〈今〉は物自体であるとはいえ、ほんとうに物自体であれば〈私〉や〈今〉のように何らかの内容的規定を示唆する呼び名で呼べるはずがない。だからたぶんそれらはこのような超越論的な(=実在を構成する)形式が適用された後に、そのような形式をすり抜けて生き残った物自体のお零れのようなものなのだろう。そのあり方を別の観点から特徴づけるならば、法則性・規則性・一般性・普遍性をもちえず、同じ種類の他のものの存在をどこまでも拒否することといえる。

 

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【感想】

第4章タイトル及び76頁「その前に復習を」に「繋がりの仕組みによる〈私〉や〈今〉」とあるが、これは、「繋がりの仕組みによる「私」や「今」」の誤記なのか(97頁末尾では(76頁分が)そのように引用されている)。

しかし誤記のはずもないので、私の理解がどこか間違っているのだろう。