永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

本当はウサギだとか本当はアヒルだとか言い立てずに

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本当はウサギだとか本当はアヒルだとか言い立てずに

【要約】

1~3段落(88頁)

つまり言語には最終的な現実性というものが存在しない。すなわち、われわれは最終的な現実性というものが存在しない世界(言語が構成する世界)とそれが存在する世界(端的な現実世界)とが重なり合った、矛盾を内包する世界を生きているのである。

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【感想】

1.その矛盾こそが人生の苦しみの源泉なのではないでしょうか。

どちらかに徹することができれば苦しみはなくなる。

たとえば、自分を構成するある性質と自分との結びつきについて、「全くの偶然(謎、という意味で)」と思ったり、逆に「分離不能(自分とは、その時刻にその性質を持った人間のこと。ゆえに、自分とその性質を分離して考えること自体ナンセンス)」と思えたりすれば苦しまないのに、分離したうえで、偶然とも思えないから、苦しんでしまう。言語的「粘性」に苦しめられる、というか。

 

2.たとえば、私(E)はなぜこんなに太っているのか、という問いは、①Eはなぜこんなに太っているのか、という問いと、②なぜ〈私〉はEなのか、という問いの2つに分解できると思う。そして、①に対しては、(遺伝や環境や自分の意志や・・・を持ち出したところで)究極のところ、Eとは「こんなに太った」人のことだから、という解に行きつかざるを得ず(トートロジー)、②に対しては、そもそも、なぜかたまたま((特別な種類の)偶然)、という解しか存在しない。つまり、元の問いは、問えない問いなのだ。

 

3.つまり「私とはこの人間のこと」と「私は持続する」という2つの錯覚から覚めれば(カテゴリーを離脱できれば)苦しみから逃れられるかもしれませんね(ずっとは無理でしょうけど)。

 この方向の修業がヴィパッサナー瞑想だというのはそんなに見当外れではないと思いますが、逆に「私とはこの瞬間のこの人間のこと」と徹底して思い込もうとする修業がナサッパヴィー修行(香山リカ「マインドフルネス最前線」(サンガ新書)57頁)だという、つまり、ナサッパヴィー修行も実は煩悩から解脱するためのものだ、という、ナサッパヴィー修行に対する解釈は新しいかもしれません。

 

4.夢の世界は、言語なき世界(最終的現実性のみの世界)なのでしょうか。しかしそこにも苦しみはあるか。

いや逆に、夢の世界は言語のみの世界なのか。その証拠に、無自覚的想念連鎖が異様に早く、これを誰も止められない。