永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

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【要約】

1~3段落(102頁)

前反省的自己意識の視点から反省的自己意識のはたらきを把握するのがヴィパッサナー瞑想の本質である。ただしこの前反省的水準をサルトルのように単に反省意識がはたらく以前の意識のあり方と取るか、私のように実在的意味連関とは独立の現実的実存と取るか、この違いこそが決定的である。この区別の観点から言うと「気づき(サティ)」の本質は、中身の如何にかかわらず、ただ現実に存在していること(すなわち実存)に気づくことにある。

 

4~15段落(103頁)

アブラハム一神教の信仰もこの観点から解釈することができる。

 

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【感想】

1.反省とは、自分自身を「何であるか」と捉えることですが(「〈仏教3.0〉を哲学する」43頁末尾)、自分自身を、内容的規定では捉えない方法もありえて、それはつまり、私を内容的規定の全くない私と捉えるということになりますが、ただ、それを、(サルトルのように)単に反省意識がはたらく以前の意識のあり方と取るか、(永井のように)実在的意味連関とは独立の現実的実存と取るか、この違いが決定的に重要だと言われています。

2.1~3段落で言われている「把握」や「気づく」に違和感を感じる人がいるかもしれません。実存が無内包であるなら、それを把握したりそれに気づいたりすることはできるのか、と。

永井さんが度々例に引くウィトゲンシュタインのチェスの駒の喩え(の永井解釈)を用いるならば、駒に被せた冠がゲームの進行に影響を与えてしまっているのではないか、と。

あれが「現実に」見えるのも、これが「現実に」痛いのも、無内包の現実性あってこそ、なのですから、この「見え」やこの「痛み」に無内包の現実性は含まれている、すなわち、その意味で、日々無内包の現実性に気づかされているとも言えるのですが、実存そのもの、無内包の現実性そのもの、それ自体を、単独で、独立に、それだけ取り出して、把握したり、それ自体に気づいたり、ということはできるのでしょうか。

ここにどうしても躓いてしまう人がいるのではないでしょうか。

〈気づき〉は純私的な体験なのだ(だからそのような体験もあり得るのだ)と言われるかもしれませんが、しかし、無内包に気づくなど、そもそも体験になり得ないのではないか、という疑問です。

「〈仏教3.0〉を哲学する バージョンⅡ」280頁以下に、この問題に関する永井さんの直接的な回答があるので、引用しておきます。

(以下引用)

同じ質問者の一つ前の質問が、哲学的に見ればより重要だろう。それは、〈私〉が客観的世界やその内部にいる「私」を観察したり(そのことによって)影響を与えたりすることが、どうして(あるいはそもそも)可能なのか、という問いであった。〈私〉が、実在世界(娑婆世間)に対する無関与(無寄与)的な存在者であるかぎり、それは不可能であるはずではないか、という疑問である。

私はまず、その二つのあいだの関係を独立の二つの実在的存在者のあいだのふつうの意味での関係と同じように扱うべきではないと言って、その後、対立する二種の答えを提示している。一つは、それは問題なく可能ではあるが、じつのところそれは、〈私〉という事実に気づいた「私」が、気づいたその事実を利用して、それとは無関係に実在している自分の心の内容をそういうものとして観察する、という心理的事実であるにすぎないのだ、というものであり、もう一つは、そうではなく、じつのところはもともと(=普段でも)〈私〉だけが、この世界の外からこの世界を観察しそこに影響を与えうる唯一の存在なのだが、瞑想的実践においては、通常はそこに纏わる夾雑物がすべて削ぎ落され、その事実そのものが剥き出しで明るみに出されるのだ、というものである。後者の場合には、〈私〉は無寄与的存在であるどころか、むしろ通常の客観的世界(娑婆世間)をその外から観察し結果として影響を与えうる唯一の存在であることになる。

この二重性はこう言いかえることもできる。後者の捉え方において、無関与(無寄与)的である〈私〉が実在的存在者である「私」の内容を観察し、そこに影響を与えうるとしても、〈私〉はその際には必ず、概念的水準でのその反復にすぎないものと現実のそれとに二重化されざるをえないので、どちらが起こっているのかは誰にも決してわからないのだ、と。

鼎談の中でも、この問題に実質的に触れている箇所がいくつかある。(略)チェスの駒の一つに冠をかぶせるというウィトゲンシュタインの比喩について論じている箇所である。ウィトゲンシュタインに反して、この冠はじつはつねに効力を発揮している。このゲームのすべてはじつのところはこの冠において表象されているからである。にもかかわらず、この冠の存在はこのゲームには少しも関与していない。チェスのルールのどこにもこの冠についての記述はないからである。

このとき、このゲーム全体はじつのところはこの冠において表象されているにすぎないという覚醒が生じたとすれば、それはたしかに真実に目覚めたのだともいえるのだが、そういう新しいルールがチェスのルールに付け加わっただけだ(たんなるルールの変更にすぎない)ともいえるのである。とりわけ、この冠をかぶった駒がその事実を他の駒たちに伝えようとしたその時点においては。

(引用終わり)

 3.(2とは別の話として、)瞑想修行の本質が、〈私〉と私を分離し、〈私〉の立場に立って私を出来事として見ること、だとした場合、おのずと限界があると思う。

〈私〉は私に、痛み、意志、記憶、言語の4点でピン止めされていて、このうち言語と記憶のピンを外すことはできるかもしれないが(これにより種々の煩悩から解放されるかもしれないが)、意志は難しく、痛みは不可能ではないでしょうか。

たとえば、

①昨日、自分の子供を自分の過失による交通事故で大怪我をさせてしまい、重大な後遺症が残ったとして、それを今まったく気に病まないとか、

明日、自分が拷問を受けることが確実なのに、それを今まったく心配しないとか、

今、自分の子供が拷問を受けているのに、それに全く動じないとか、

なら、修行により可能になるかもしれないけれども(言語と記憶のピン止めを外すことはできるかもしれないけれども)、

②2人いる自分の子供ABのうちどちらかが拷問を受けることは決まっている場合に、それをどちらにするかを今自分で決めなければならない(決めなかった場合には自動的にAになることが決まっている)、その苦しさから逃れることはかなり困難で(意志のピン止めを外すことはかなり困難で)、

③現に自分が拷問を受けているときに、その苦しみから逃れることは不可能(痛みのピン止めを外すことは不可能)、

なのではないでしょうか。

自分はこの固有名の人物ではない、という立場に立つことによってさまざまな苦悩から解放されるとは思いますが(①)、この固有名の人物でしかない(少なくともそこから完全に離れることはできない)ということを否応なく感じさせられる体験も人生には数多くある(②③)。

ずいぶん極端な例を挙げたと思われるかもしれませんが、われわれの人生の苦悩はこれら極端な例の薄められた形での現れ、と言えるのではないでしょうか。

4.以上(2及び3)はおそらく、瞑想修行に対するかなり浅薄な理解なのだと思います。

2020.5.8の永井さんの次のtweetこそが、簡にして要を得ており、まさに瞑想修行の本質を衝いていると思います。

中心的な部分の哲学的懐疑論と独在論の関係の話は仏教瞑想の話とも繋がる。マインドフルネスとは、前者からすれば唯一の実在する主体が実は実在していない(夢のような)世界をそうと観ることで、後者からすれば唯一実在しない空なる主体が実在世界をそのまま観察すること。この二つは同じことなのだ。

(※「中心的な部分の」とあるのは、サンガ社刊「食べる――食と心の健康 (サンガジャパン Vol.35(2020spring))」所収の永井さんと山下良道さんとの対談における永井発言の中心的な部分という意味です。)