永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

自由意志について

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自由意志について

【要約】

1~7段落(124頁)

この体を「自由に」動かせるとは「直接に」「内側から」動かせることである。だから、自由の存在の驚きは私の存在の驚きと一致している。私の存在の驚きはカント原理(とりわけ語りの原理)で消滅するから、自由の存在の驚きも消滅する(すべての人が自由意志を持つことになることによって)。なぜ自由意志が存在するのか、という一般的な問いがここに成立する。「他者の自由」の成立である。

 

8~9段落(126頁)

真に問われるべきヨコ問題は、一般論としての、物理的存在である脳が自由意志を生む不思議、というタテ問題に変質を遂げる。ヨコ問題は手をつけられてさえもいない。

 

10~11段落(127頁)

「私の脳もまた物理的な存在だから自然法則に従っており、よって実は自由意志は存在しない」という議論の成立のためには、そのとき私が従っているその自然法則を知りうるものが存在しなければならない。誰も知りえない自然法則に実は従っている、という議論は空虚だからである。さて、その知りうる者は、原理的に、そこに介入して私の意志を外から操作できる者でもあることになる。そしてその者の脳もまた物理的な存在だから自然法則に従っているはずであり、それゆえその者の自由意志もまた存在しないはずである。ところでしかし、その者がそれを知る時点で従っているその自然法則を知り、原理的に操作できる者はだれか。そういう者が最終的に存在しない、あるいは存在してもそれはもはや物理的存在者ではない、あるいは単に可能的存在者であったりすれば、やはりこの議論は空虚な形而上学的主張になる。ここにもまた、あの累進構造と同じ問題が成立する。そしてその累進構造は、まさにあの当初の累進構造の反復でしかありえない。つまり擬私的でしかありえない。

 

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【感想】

1.〈私〉からアクトゥアリテートとしての自由意志を追い出せば、その矛盾は、私を擬した存在者の想定にたどり着かざるを得ない。

 

2.ヨコ問題とタテ問題

ヨコ問題=内容的規定には何の根拠もないのに、なぜかある個体・時刻・世界だけが特殊なあり方をしていること(無内包の現実性の存在)に、哲学的矛盾の淵源を求める捉え方。

タテ問題=どの個体・時刻・世界にも当てはまる構造(内包)があって(たとえば中心性)、その構造に哲学的矛盾の淵源を求める捉え方。

 

(2017.12.9ツイッターで、永井さんから、

「ヨコ問題は正しいが、タテ問題は間違い。ヨコ問題を「内容的規定には何の根拠もないのに、なぜか…」と規定するなら、タテ問題はこれを否定して「内容的規定の内に根拠があって…」とすべき。すなわち、主観ー客観、心ー物、のような差異を本質的と見て、この一方から他方を説明するような発想法。」

とのご指摘を頂きました。感謝いたします。)

 

3.自由意志に関しては、永井さんが、2015.4.1Twitterで、

「「私には自由意志がある」と感じる根源には私の発話意図に従って物体である身体に付いた口の一つが動いてそこから言葉が出るということがあるのではないか、と。心と物だけでなく理性と感性がこれで結合されるので。他者の場合はこのことの裏返し。」

「あ、「意図通りの音」というより「意図通りの言葉」と言うべきでした。もちろん、この「音」と「言葉」の同一性によって感性と理性が結合される、と考えても同じことですが。」

と言っています。

〈私〉として言葉を発したところ、(なんと)この体からその言葉が発せられ、私はその言葉を聞き、理解する。このプロセスにより、心(発話意図)と物(身体)、並びに、理性(発話意図)と感性(音)が結びつき、「私には自由意志がある(心に従い身体が動く)」と感じる、ということでしょうか・・?

 

4.永井自由意志論を知りたい方は、「世界の独在論的存在構造 哲学探究2」(春秋社)158頁~を必ずお読みください。

 

5.2019.6.6追記

(1)私には、現に、ほら、この〈自由意志〉がある!、ということは、言えば、言われた相手から賛同されてしまうが故に、言えない。言いたかった、この私にだけある、この〈自由意志〉は、言語により消えてしまう。

(2)自由意志はない、ということも言えない。言う、ということ(の内)に、自由意志が前提されているから。

罪人が法廷で裁判官に「あの犯罪の瞬間、自分は現にそのような(犯罪を犯す)人間であったのだから、どうしようもなかったのです。だから自分は無罪です。」と言うのに対し、裁判官が、「私があなたに死刑を言い渡すのも、同じ意味でどうしようもないのです」と言う、という話も、自由意志はあるのかないのか、という話ではなく、「自由意志はない、ということは言えない」ことの一例なのではないでしょうか。

(この(2)は、ツイッターのハンドルネーム「哲学坊や」さんとの会話の中で思い至りました。)

(3)上記両者の言えなさの故に、結局、各人に各人の自由意志がある、という、常識的な世界観が成立する。

のかな??