永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

(無題)

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第2部 時間的なのっぺりしていなさの特殊性

――マクタガートの議論を中心にして――

 

第10章 極限の貧しさと極限の豊かさ――ヘーゲル精神現象学』の冒頭部について

 

(無題)

【要約】

1~3段落(162頁)

前章で述べたとおり、〈私〉とは何かという問いには、第一と第二の2つの問い方があり、第一の問い方の根拠になっているのは第二の問い方である。〈私〉とは何かという問いの意味を理解しない人は多いが、その中に、あまりにも第二の視点に固着しているためにそこから身をもぎはなして自分の存在を相対化し、他者と対等の立場に置いてみる(そのうえで「現実性-可能性」という形で違いを対象化して捉えなおしてみる)ことがそもそもできない人がいる。逆に言えば、第二の問い方で〈私〉とは何かを問える人は(すでに相対化できていることになり)、同じ問いを第一の問いの形に相対化することができる(その場合にはタウマゼイン語法での「可能性」と対比されてただ「現実性」だけが問われることになる)ことをすでに知っているからだと言える。この事実こそがヘーゲル哲学から学びうるものである。

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【感想】

1.ここから始まる時間論については、先に「時間の非実在性 」(講談社学術文庫)の永井さんによる「付論」を読んで、永井さんの言いたいことの要点を掴んでおくと、理解しやすいと思います(以下、簡潔にまとめられているいくつかの部分を引用しておきます)。

(「時間の非実在性」218頁後ろから3行目~より引用)

マクタガートの戦略は、その「過去」や「未来」の諸時点もまた、関係的・相対的視点から見れば過去でも現在でも未来でもある、という点にある。これはいわば、変化を遍在化することによって端的な変化を消滅させる、という戦略である。これによって消滅させられる変化は、ただ一つだけ現にここに現在があり、現に過去になる、という意味での現実存在(exist)する唯一のA変化である。それは、どこででも起こっている〈未来⇒現在⇒過去〉の変化のたんなる一例とされることによって、端的なA系列的変化ではなくなって、消滅するのである。このように、端的さなしの関係性だけで捉えられると、両立不可能性(過去・現在・未来のどれか一つでしかありえないこと)がなくなり、唯一的・現実的変化を産み出せなくなる、というのがマクタガートの言う意味での時間の非実在性である。「このことは、明らかに、それら三つのタームが両立不可能であることと不整合であり、それらが変化を産み出すことと不整合である」とは、関係化・相対化が時間的変化そのものを消滅させることになる、という意味である。(引用終わり)

(「時間の非実在性」228頁3行目~より引用)

時間とは継起する諸現在のことなのだとすれば、そこに本質的にこれと同じ矛盾が内在していることは明らかなことである。つまり、構造上、時間は、「しかし、その現在とはいったいいつのことなのだ?」という問いに曝されつづけ、意識は、「しかし、その自己意識とはいったいだれのことなのだ?」という問いに曝されつづけるわけである。(引用終わり)

(「時間の非実在性」256頁7行目~より引用)

時計の文字盤にあたるこの年表そのものは、出来事相互間のB関係をあらわしており、この年表時計上を移動していく針の動きそのものは、A変化を表現してはいる。そのことは、針の動きは(針の動きだけは)年表上に出来事として(たとえば「ここに針が来る」として)書き込むことができないという点に現われている。だから、この年表時計にはA変化=B関係はあるが、それだけではまだA事実はないのだ。それは、その外からわれわれが与えるしかない。われわれには、端的に、その位置にある針しか見えない(それ以外の位置にある針は見えない)という事実によって。

 われわれが与えるしかない、などと偉そうに言ったが、じつはわれわれにもそんな能力はないだろう。たしかに、時計を見る場合には、われわれにその位置の針しか見えないという事実がそれを与えているかのように思われもしよう。しかし、われわれ自身も自分たち自身を、この針のように出来事系列上を動いているものとして表象することができ、その場合、端的なA事実はわれわれの外から与えられることになる。今度は、なぜかわれわれは、端的にその時点に居る(その時点にしか居ない)という事実によって。(引用終わり)

2.また、「世界の独在論的存在構造 哲学探究2」(春秋社)146頁以下も、先に読んでおくと、本書の、特に16章以下の理解に役立ちます(以下、引用しておきます)。

(「世界の独在論的存在構造 哲学探究2」146頁~より引用)

この矛盾的なあり方には二つの表象の仕方があって、一つは「動く現在」という表象の仕方である。それによれば、年表のような出来事系列上を現在というものが過去方向から未来方向へ向かって動いていく。現在が動いて行くのだから、その動く現在は現在どこにあるのかという問いが成り立ち、たとえば「それ(=現在)は現在2018年1月にある」などと言える。さてしかし、動く現在のほうの現在と、それが現在どこにあるのかのほうの現在とが、ともに現在と呼ばれるのはなぜなのであろうか。

 もう一つは、現在という場の上にさまざまな出来事が次々と生じては消えていく、という表象の仕方である。この場合もやはり、さまざまな出来事がその上で生じては消えていくのであれば、その現在という場にも過去のそれや未来のそれがあることになる。もちろん現在のそれもである。ではしかし、現在という場のほうの現在と、現在のそれのほうの現在とが、ともに現在と呼ばれるのはなぜだろうか。

 答えは、端的な現在からその端的さの側面(すなわち現実性)を取り除いて、現在というあり方の本質的特徴の側面(すなわち中心性)だけを抽出し、そのうえでおのれをその一例と見なしたから、というものだろう。抽出された本質の中には、現実性もまた概念(本質)化されたかたちで保存されている。すると、過去にも未来にも現在があることになる。過去にはあったし、未来にはあるだろう。

 その結果、現在が動くとか、現在という静止した場に出来事が生起するといった、見方によってはまったく意味をなさないほど馬鹿げた考え方が、何の問題もない、きわめて普通の考え方になる。現実性を概念(本質)化して保存することによって、「ものごとの理解の基本形式」から外れざるをえなかったものをそれに乗せることに成功したのである。現在は、むきだしの実存としての現在とその実存を本質化して保持した現在という二つの意味を持つことになった。(引用終わり)

3.言語はものごとの理解の基本形式を前提にしているので(というよりも、ものごとの理解の基本形式そのものなので)、これに反する独在的事実は表現できない、というわけです。