永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

『精神現象学』の始まりの部分

目次はこちら

 

精神現象学』の始まりの部分

【要約】

1~4段落(164頁)

ヘーゲル精神現象学』の「感覚的確実性」の章の狙いは、感覚に直接与えられたもの(現に見えている色等)の絶対的な確実性を否定することである。最初にヘーゲルは、直接的な感覚には実存だけがあって本質がないこと(「貧しさ」)を指摘する。見えている「赤」には客観的な(他者と共通の)対象は対応していないため、その人が「赤」という語を正しく適用しているかどうかは判定しようがない。すなわち、本質に関する確実性はなく、確実性は「この」色に見えているという事実にのみある。それを疑うことはできないが、それはそもそも疑うべき内容がないがゆえの確実性である(「貧しさ」)。しかし、内容がないとは言っても、何もないのではなく何かがあるとは言われている。これは本当に「貧しい」のか。

 

5~6段落(166頁)

「「自分には赤いと思われる色」に自分には見えている」の前者の「自分には」の判定の特権により、「赤く」見えれば「実際に」赤い(他人に判定してもらう必要などない)のではないかと思われるかもしれないが、この特権は、社会が個人に公的に与えるものであるから、その社会の公的なメンバーであるとみなされなければ、そもそも与えられない。そして、この章では、感覚を感じる主体はまだこの段階に達してはいないのである。すなわち、他者=可能な私と対比されない単なる現実性そのものとしての私である。

 

7~8段落(167頁)

一面でたしかにそれは「貧しい」段階ではあるが、他面ではそれが在ることがすべての前提であるともいえる特殊な段階である。私はそのことを論じていきたいが、ヘーゲルはここに留まらず、対比の空間の設定に向かう。その際ヘーゲルは、まずは対象の側こそがそれ自体で存在する本質的なもの・それを知る主体の側はそれ自体では存在できない非本質的なものとみなすが、最初からその逆とみなし、ヘーゲルが主題とする「今」「ここ」ではなく「私」を主題としてもヘーゲルの意図どおりのことが提示できると思うので、以下それに沿って論じる。

 

9~11段落(168頁)

「今とは何か」と問われたら、われわれはたとえば「今は夜だ」と答えるだろうが、この感覚的確実性の真理性を否定するにはこの真理を紙に書き留めるだけでよい(昼になった今、書き留められた真理を見なおすと「気の抜けた真理」になってしまっているから)、とヘーゲルは言うが、それがいつ書かれたかが知られているなら、それはべつに「気の抜けた真理」になりはしない。このようなプロセスを経ても保持される「今」は直接の(現実の)「今」ではなく「その時の「今」」である。これをヘーゲルは「媒介された今」と呼ぶ。「媒介された」あり方の本質は、いったん直接的なあり方を否定され、否定を経験してなおそのものとして生き残っている、という点にある。

 

12~13段落(169頁)

このような過程を経て、「今」は単純さを保持しながらも個々の実例からは独立したものとなる。すなわちヘーゲルによればわれわれは個別的な感覚的事象もまた一般的な語によって表現するほかはない。その際、われわれが言おうとしていることは一般的なことではないのだが、言われているのは一般的なことなのである。つまり、感覚的確実性においては、言おうとすることはそのまま言えてはいない。しかし真理は言葉の側にあるので、われわれは自分の言っていることによって、自分が言おうとしていることを即座に否定していることになる。われわれは自分が語ろうとしている感覚的な存在について語ることはできない。

 

14~15段落(170頁)

しかしヘーゲルのこの議論は粗雑である。われわれが「これ」と言うとき、一般的な「これ」について言ってしまっているわけではない。そうではなく、一般的な語である「これ」のような語の持つ指示力を使って(一般的ではない)個別的なものを指すことはできるのだが、それはすでにして一般化された土俵の上に立った(すなわち否定を経験した)個別者でしかなく、原初の(それをこそ語ろうとした)感覚的確実性はすでにして失われているのだ、ということこそが彼の議論の真骨頂のはずである。甘さにせよ痒みにせよ、いくらでも個別的なことは語りうるのだが、それはあくまでも一般性を媒介した後の、つまり「否定性を内に含んだ」個別性でしかない。

 

16~17段落(171頁)

「私」についても全く同じことが言える。われわれが「私」と言うとき、いきなり「一般的な私」のことを言ってしうなどということはありえず、個別的な人間を指すことは問題なくできるのだが、それをこそ言おうとした対比なき「これ」としての私はすでそこには存在しない。すなわち、私は「自分が言おうとしたことを即座に否定している」のだが、「否定を媒介にして」話はちゃんと通じている。「今」がその時の今として保持されたように、「私」はその人の私として保持されたのである。

 

18~21段落(171頁)

ヘーゲルは感覚的対象を「現実的で、絶対的に個別的で、まったく個性的で、それと完全に同じようなものがないようなもの」だと考えている。そして「そこに絶対的な確実性と絶対的な真理性がある」とする立場に対し、言おうとされているその感覚的な「これ」は言葉によっては到達不可能で、「言おうとすることは言えていない」と言う。続けて、あらゆるものは「個別的なもの」「このもの」「これ」であるから、「個別的なもの」「このもの」「これ」は一般的だ、と言うが、これも、このような一般的な語のもつ指示力によってはじめて個別的なものを指すことができるようになる、と(ヘーゲル的に)補正されるべきである。「これはひりひりするような全く独特の痒さだ」と言った人は、絶対確実にまさにそのような痒みを感じている、とみんなに思ってはもらえるが、しかしそれは一般的に与えられた一般的な確実性にすぎず、彼が真に言いたいことは言えていない、というわけである。

 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

【感想】

(16~17段落)「否定を媒介にして」話はちゃんと通じている→これが、独在性を語りうる理由ではないか。

おそらく言語は完全には論理ではない。