ヘーゲルの知らない区別
【要約】
1~6段落(176頁)
ヘーゲル自身も気づいていないかもしれないが、かれには二種類の「言えない」と言いたいものがある。彼のおもて向きの主題は「感覚的確実性」(じつはそれを感じていないことがないこと)であったが、ここには、「まちがいなくこれを感じている」という感覚の確実性と、「まちがいなく私が感じている」という自己の確実性の、異なる二種の確実性が含まれている。感覚的確実性の例として彼は「今は夜だ」を挙げたが、これはいくらでも疑い得るので、本来言うべきであったのは「今が今だ」(または「これが今だ」)であり、私に置き換えるなら「私が私だ」(または「これが私だ」)である。これは、他時点に対して(他者に対して)言えない。言えば、その時点にとっての(その人物にとっての)真理に変換されてしまう。
7段落(179頁)
感覚の確実性は、第0次内包の確実性である。これは、ある時から塩が甘いと感じられるようになった人にはそう主張する権利がある(「これは甘い」と決定する権利は私の感覚に与えられている)、という例で明らかなように、どんなに貧しく見えても、世の中で客観的な役割を演じることができる。
8~9段落(180頁)
自己の確実性は、無内包の現実性の確実性である。これは、客観的な役割を演じる可能性がない。ある時を境にして私が安倍晋三になっても、私にはそう主張する権利がない。客観的に有意味な複数人間(かん)のやり取りにおいて、その中のひとりが「現実の私」であることが何らかの役割を演じることはけっしてない(機能をもつのは、だれであれ何かが見えているなら、それを見ているのは自分だと必ずわかる、という事実だけである)。今についても同じことがいえる。諸「今」のなかに一つだけ「現実の今」があることに、果たすべきいかなる機能もない(機能をもつのは、いつであれ何かが見えているなら、それを見ているのは今だと必ずわかる、という事実だけである)。
10~11段落(181頁)
これらは、累進構造図の最上段であることが世の中で役割を演じることはけっしてないということを意味している。そこから、累進構造図において最上段の存在を認めない立場と認める立場の対立(「自-他対立」と「実‐虚対立」との対立)が起こる。それが起こりうるのは「今」や「私」の場合だけであって、感覚的確実性にはこの可能性がない。「今」や「私」に付きまとう「貧しさ」は、「実在しない」という極限の貧しさであり、感覚的確実性の貧しさの比ではない。この最も重要な区別に気づいた哲学者はいない(ヘーゲルもフレーゲも)。この区別に気がつけば、極貧である(実在しない)はずの出発点こそが極限の豊かさを秘めており、結局すべてはそこに帰っていくほかはない、という別の見方の存在にも気づかざるをえない。
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【感想】
0次内包と無内包の現実性の違い①。
0次内包:他人に主張できる
無内包の現実性:他人に主張できない