永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

(無題)

目次はこちら

 

第11章 マクタガートA系列とB系列とは本当はどういう分類なのか

 

(無題)

【要約】

1~2段落(184頁)

感覚は、たとえ言葉で言い表すことができないとしても、いわく言い難い「これ」という特定の内容があるのに対し、「今」(や「私」)には、今を今たらしめる特定の内容はなく、逆に言えば、今であった内容は、その内容を全く変えずにただ今でだけなくなる(私であることにも特定の内容がない)。*〈私〉や〈今〉の極限の貧しさと感覚の貧しさを混同したのは、感覚に関する私的言語を不可能だと主張した(と思われる)ウィトゲンシュタインも同様である。不可能なのは無内包の現実性にかかる私的言語だけである。

 

3段落(185頁)

極限の貧しさはまた、「それしかない」という意味で極限の豊かさでもある・・・のだが、それは、外的視点や他時点から見ればそんな特別の時点などないと言う意味で妄想である・・・のだが、いやそもそも外的視点や他時点から見ることなど不可能という主張なのだから・・・と、この対立は累進する。

 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

【感想】

0次内包と無内包の現実性の違い②

0次内包:たとえ言葉で言い表すことができないとしても、いわく言い難い「これ」という特定の内容がある

無内包の現実性:特定の内容はない