第11章 マクタガートのA系列とB系列とは本当はどういう分類なのか
(無題)
【要約】
1~2段落(184頁)
感覚は、たとえ言葉で言い表すことができないとしても、いわく言い難い「これ」という特定の内容があるのに対し、「今」(や「私」)には、今を今たらしめる特定の内容はなく、逆に言えば、今であった内容は、その内容を全く変えずにただ今でだけなくなる(私であることにも特定の内容がない)。*〈私〉や〈今〉の極限の貧しさと感覚の貧しさを混同したのは、感覚に関する私的言語を不可能だと主張した(と思われる)ウィトゲンシュタインも同様である。不可能なのは無内包の現実性にかかる私的言語だけである。
3段落(185頁)
極限の貧しさはまた、「それしかない」という意味で極限の豊かさでもある・・・のだが、それは、外的視点や他時点から見ればそんな特別の時点などないと言う意味で妄想である・・・のだが、いやそもそも外的視点や他時点から見ることなど不可能という主張なのだから・・・と、この対立は累進する。
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【感想】
0次内包と無内包の現実性の違い②
0次内包:たとえ言葉で言い表すことができないとしても、いわく言い難い「これ」という特定の内容がある
無内包の現実性:特定の内容はない