永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

A系列とB系列の二つの相違点の独立性からA系列の本質を探る

目次はこちら

 

A系列とB系列の二つの相違点の独立性からA系列の本質を探る

【要約】

1~2段落(190頁)

上記①と②に内的関係はあるのか。もしあればどちらか一つに還元できるし、もしないのであれば、A系列とB系列は、①のみで違う、あるいは②のみで違うことも可能であることになる。

 

3~4段落(191頁)

可能であると考えてみよう。まず端的な領域分割はあるが動きはない系列を考え、AB系列と呼ぼう。この系列に時間としての特質はない。

 

5~11段落(192頁)

逆に、動きはあるが端的な領域分割がない系列を考え、BA系列と呼ぼう。この系列は時間としての特質を維持しうるか。1、2、3・・、という目盛りのついた物差しと、A、B、C・・、という目盛りのついた物差しがすれ違いながら対応関係を変えていく、という変化系列を考えれば、BA系列を想定することは可能だが、〈今〉に対応する特異点がない以上、この系列も時間としての特質を失っている。もしそれを維持していると解しうるとしても、少なくともB系列であらざるをえない。「われわれの」現在(今)を外部から挿入しない限り、これはあくまでもB系列である。

 

12段落(195頁)

この場合、外から与えられるこの「われわれの現在」は、唯一の端的な現在を挿入する機能と、そのことによって時間が経過するということに固有の変化(時間的変化)を生み出すという機能の、二種の機能を果たしている。

 

13段落(195頁)

一方に特権的一点(針)があり、それと出来事系列がずれていく、という表象の仕方の場合にも「われわれの現在」の挿入は不可欠なのだが、この場合には、時間的変化の表象自体はその挿入なしにすでに与えられているので、その挿入がはたす機能は「唯一の端的な現在が与えられる」という機能のみである。

 

14段落(196頁)

このように、動性をこのような仕方で特別な一点(による領域分割)から独立させると、それはおよそ時間的な特質を失ってしまう。あるいは、少なくともB系列にならざるをえない。B系列をA系列の普遍化(現在の普遍化)によって成立する高度に抽象的な金太郎飴状態と解するなら、これはB系列でさえない。しかしB系列と解するほかはない。

 

15段落(196頁)

われわれは「現に今」がない世界というものを、考えることはできても、思い描くことができない。ゆえに、上記のようなずれの運動を理解するときにも、われわれは、その外から、現在における移動(と過去や未来における移動との区別)を持ち込んで理解しているし、そうせざるをえない。

 

16段落(196頁)

実をいえば、動きという特性と端的な領域分割という特性が結合しているということはかなり不思議なことなのである。時計の例で言えば、今見る(今の針の位置だけが現実に見える)という事実が過去・現在・未来の領域分割を作り出すのだとすれば、動き(変化)は見えないはずであるし、逆に、動き(変化)という事実―あるいは領域分割そのもの―をその外から見ることができているなら、この端的な領域分割の内側に入って「今見る」ということはできないはずではないか。このように、今が動くという事実にはすでにして一種の矛盾(二種の異質な世界観の結合)が含まれている。

 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

【感想】

AB系列+動き=A系

A系列(今上映されている箇所がないような仕方で上映されている映画)+今=A系

しかし、「今上映されている箇所がないような仕方で上映されている映画」表象と「時計」表象の違いが問題である。