永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

つぎに、B系列の本質を探る

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つぎに、B系列の本質を探る

【要約】

1段落(197頁)

B系列とは、時間からその現在(今)を取り去ったもののことである。過去と未来は現在を取り去れば自動的に取り去られる。マクタガートは現在を取り去るとは動性を取り去ることだと考えているが、今までの考察を前提にすれば、取り去られるのは端的な領域分割であり、時間的な動性はそのことによって結果的に取り去られるとみなされるべきである。すると動性のある側面はB系列に残されることになる。

 

2段落(198頁)

その側面とは、端的な一点のない金太郎飴的動性、すなわち過去方向と未来方向の向きの区別である。B系列には、A系列の唯一の特徴である端的な現在が無いがゆえに、端的な領域区分も欠けているが、向きの区分(抽象的動性)だけは残存している。動きがないのに、動きの方向だけは指定されているのである。

 

3段落(198頁)

時計の見方には二つある。一つは文字盤を出来事と見なし針を動く今と見なすという比喩的な見方であり、もう一つは、普通に、針の位置や移動それ自体を一つの出来事と見なす見方である。後者は、「今それを見る」という行為が外からひそかに持ち込まれない限り、ただ方向の区別だけがあって、実際の動きはないのと同じである。「今それを見る」という行為が持ち込まれても、それをふたたび時々の針の位置という出来事の上を動く針のように表象してしまえば、ふたたび、どこまでも、同じことが起こる。

 

4~6段落(199頁)

この議論を正確にするために、C系列を導入する。A系列時間から、B系列時間には残されていた時間的方向性さえも取り去り、残るのがC系列である。(われわれの世界に偶然的に存在する「一定の周期で繰り返される物体の運動」がなければ時間は計測不能になるが、この場合C系列は存在しない。C系列による測定可能性は時間にとってはないことも可能な偶然的事実にすぎない。)「明日」「昨年」はA+C語であり、「翌日」「前年」はB+C語である。二出来事間の「翌日」「前年」関係は不変だが、昨年は二年前になり三年前になる。そして、明日は今になり昨日になる(むきだしのA変化)。