永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

言い換えが奪うもの

目次はこちら

 

言い換えが奪うもの

【要約】

1~2段落(210頁)

これは動性の可能性への書き換えとも言える(「未来において過去である」は仮に未来という視点から見れば(今すでに!)過去である、とも取れる)。累進図で言えば、「過去になるだろう」は最上段における横の関係(時制における現実的な変化)を語っており、「未来において過去である」は、縦の関係(様相における可能性)を語っている、と見ることができる。「未来において過去である」の「である」は「現在において」の意味であり、現在における可能性であることがあらわれている。

 

3段落(211頁)

この言い換えはA系列から動性を奪った。私は「どんな出来事も、最初は未来であり、次に現在となり、最後に過去となるのだから、かならずこの三つの特性を持つのだ、と言われているように読める」と言ったが、言い換えられた表現法によって、このことを表現することはできない。ということはつまり、私の解釈が正しいなら言い換えは不当であり、言い換えが正当なら私の解釈は誤りであり、どちらも正しいのであれば「矛盾」の源泉がここにある可能性がある。

 

4~8段落(211頁)

ところでしかし、この言い換えは、動性だけではなく現実性をも奪った。端的に今起きている「私のこの論文の執筆」が、「現在において現在である」と言われることによって、「かりに現在の視点に身を置いてみるならば、現在である」という意味になってしまい、端的な現実性は奪われてしまっている(累進構造図の、縦(様相)と横(時制)の混同)。「端的性」は現在にだけあるのではない。たとえば、論文執筆時点では明らかに過去の出来事である「マクタガートの誕生」を例にとっても同じことがいえる。これを「現在において過去である」と言ってしまえば、現に過去であるという端的な現実性は奪われてしまう。

 

9段落(214頁)

マクタガートの悪循環(現在・過去・未来という特性を割り当てるための基準として、現在・過去・未来という特性を使う必要があること)は、「言い換え」後の、現実とは異なる時点に身を置いてそこから見る場合にしか生じない。現在・未来・過去という特性を端的に割り当てる場合には、そのような悪循環が発生する余地はない。

 

10段落(214頁)

時間には、この両側面(悪循環が発生するような相対的な捉え方とこれを拒否する絶対的な側面)が不可欠である。では、この相対性と絶対性の二重性格が、マクタガートの主張する「矛盾」の源泉なのだろうか。

 

11段落(214頁)

まず単純に、そうだ、と見なすことができる。マクタガートは「ある出来事が過去・現在・未来のすべてであることと、そのうちの一つでしかないことが矛盾する」と言った。すべてであるのは可能的にであり、一つでしかないのは端的にであると理解すれば、この矛盾は相対性と絶対性の二重性格の矛盾と言える。

 

12段落(215頁)

しかしマクタガートは続けて「それらが変化を産み出すことと不整合である」と言った。こちらは、可能的なあり方と現実的なあり方の矛盾ではなく、可能的なあり方と動的なあり方との矛盾の指摘である。マクタガートは、現実性と動性を一体的に捉えており、すべてを可能的な地平で捉えてしまうような捉え方が時間の現実的・動的なあり方と矛盾する、と言っているが、「ある出来事が過去・現在・未来のすべてであることと、そのうちの一つでしかないこと」の不整合と「ある出来事が過去・現在・未来のすべてであることが変化を産み出すこと」の不整合とは同じことではない。

 

13段落(215頁)

人称や様相では、現実性と可能性のみが問題となるが、時間の場合には、これに加えて、現実的なものと端的なものの間に乖離が生じる。未来や過去は、(たんに可能なのではなく)現実ではあるが、端的な現実ではない。これは、現実性内部における端的な現実と変化する現実の矛盾である。

 

14段落(216頁)

以上から、マクタガートの問題設定に対し、別の問題をさしはさむことができる。まず、そもそも現実的なあり方と動的なあり方とが矛盾してはいないか(彼が本当に問うべきはこの問いではなかったか)という問題であり、ここから派生して、彼の言い換えは、すべてを可能的な地平で捉えてしまうことが時間の現実的なあり方と矛盾するということはよく表現できているが、それはむしろ言語の仕組みにかかわる一般的な(人称や様相にも妥当する)問題であって、そういう捉え方が時間の動的なあり方と矛盾するということのほうはむしろ表現できなくしてしまっているのではないか(彼が本当に問うべきはこの問いではなかったか)という問題である。

 

15段落(216頁)

簡単にまとめるなら、時間の場合には、可能性と現実性の単純な対立ではなく、それに動性を加えた三項対立をなしており、マクタガートは現実的なあり方と動的なあり方を同一視して可能的なあり方と対立させているが、しかしじつは可能的な動性というものも考えることができ、可能的vs.現実的と静的vs.動的を組み合わせて、ここにあるのは四項対立であると見ることもできるわけである。