永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

マクタガートの言い換えを人称に適用する

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マクタガートの言い換えを人称に適用する

【要約】

1段落(217頁)

もし動性との絡みを考慮に入れなければ、マクタガートの提起した「矛盾」の問題は、人称や様相にも全く同様にあてはまる。

 

2~3段落(217頁)

私は、対面している相手や私を話題にしている人から見れば「あなた」であり「彼」であっても、現実には「私」である。いくらそれは「おまえにとってにすぎない」と言われても、一面ではやはり、この「とって」は断固拒否されねばならないし、端的な私を現に識別できているという形で、現実に拒否されてもいる。他面では、「そうだ、私にとって私であるにすぎない」と認めなければならないし、コミュニケーションが成立しているという形で、現実に認めてもいる。人称には明らかに「矛盾」がある。

 

4~7段落(218頁)

この点をさらに追及する前に、マクタガートが、「悪循環」に替えて「悪しき無限系列」を登場させる有名な段落を見なければならない。ここで彼は「諸々の出来事が第一のA系列のうちに収まるのと同じように、その第二のA系列に第一のA系列が収まる」と述べる。「この論文の執筆」という端的に現在である出来事を、過去であると言ったり未来であると言ったら、端的に現在である事実と矛盾する。しかし頭に「未来において」や「過去において」をつければ(未来において過去、過去において未来)、矛盾から「救い出せる」。その場合、現在も、端的な現在から「現在における現在」に頽落している。同様に、(「この論文の執筆」が、)「未来において現在」や「過去において現在」も、「過去において未来において現在」や「未来において過去において現在」のように「救い出せる」。その場合、「現在において現在」は「現在において現在において現在」となり、端的な現在はますます相対化される。

 

8~9段落(222頁)

可能性を多重適用するとき、われわれは通常、虚構世界の中の虚構世界・・という方向で考えがちだが、マクタガートの想定を世界に適用するなら、「この現実世界」を相対化する方向で、すなわち、他の世界の側からこの現実世界がどのように捉えられるか、にかんする多重性が問題とされてると見なければならない。この現実世界は、見方によっては(他の可能世界から見れば)単なる可能世界にすぎず、そこに矛盾が生じ、それを説明するために、累進的に多重様相を設定していかなければならなくなるのである。

 

10~15段落(222頁)

人称の場合は、(様相の場合には想定でしかない)この矛盾が、(時制の場合と同様、)現実の問題となる。ただし人称には過去方向と未来方向のような相殺可能な直線的二方向性が存在しないため、「私は、私にとって私、あなたにとってあなた、彼にとって彼である」という矛盾にとどまり、「悪しき無限系列」は生じない。

 

16~17段落(225頁)

この矛盾を二つの捉え方のあいだの矛盾と見ることもできる。一つの捉え方はこうだ。時制についていえば、時間の方向には過去方向と未来方向しかなく、現在は(方向ではなく)その二つの方向を設定するための任意の一点のことでしかない。だから、現在は過去を過去として、未来を未来として捉えることができるが、過去や未来や現在を現在として捉えることはできず、過去は現在を未来として捉え、未来は現在を過去として捉えるしかない。過去にとっても未来にとっても、「現在」といえば自分自身のことでしかない。人称についていえば、人物の存在の仕方には彼としてとあなたとしての二種類しかなく、私とはその二種類の設定をする任意の主体のことでしかない。だから、私は彼を彼として、あなたをあなたとして捉えることができるが、彼やあなたは私を私として捉えることができず、彼は私を彼として捉え、あなたは私をあなたとして捉えるしかない。彼にとってもあなたにとっても、「私」といえば自分自身のことでしかない。現在は他者から捉えられる場合には過去か未来になるほかなく、私は他者から捉えられる場合には彼かあなたとなるほかはない。

 

18段落(226頁)

もう一つの捉え方はこうだ。時間についていえば、世界は現に過去・現在・未来に分割されている。これは現実であるから、かりに過去から捉えられても、未来から捉えられても、現在は現在のままである。過去や未来の時点が現在であるというのは現実とは異なる仮想上のことでしかない。人物についていえば、現実に私と私でない人物が存在する。これは変わることのない現実であるから、彼から捉えられようと、あなたから捉えられようと、私は私のままである。彼やあなたが私であるというのは現実とは異なる仮想上のことでしかない。

 

19段落(226頁)

現実に、われわれはこの二つの捉え方の矛盾を生きており、生きていかざるをえない。このことは、世界というものは客観的な一枚の絵に描けるようなのっぺりした(金太郎飴的な)あり方をしていない、ということを示している。人称にかんしても時制にかんしても、この矛盾こそが人生のあらゆる問題の根源である。単純な例で言えば、カントの定言命法は、まず時制にかんして後者の捉え方が拒否されていること(人が自堕落ではないこと(現在が消去されていること))を前提とし、次に人称にかんして後者の捉え方を拒否すること(利己的ではないこと(私を消すこと))を要求している。

 

20~21段落(227頁)

動性を考慮に入れなければ、時制(A系列)にだけ特有の現象は、段階ごとに、その段階で問題なく許容される組み合わせと、次の段階に進んで新たなA系列を挿入して矛盾を無効化しないと許容されない組み合わせとの対立があり、その対立が段階の進行とともに変化していくことにある。動性を考慮に入れればまた別の問題がある。

 

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【感想】

1.2~3段落

たしかに、コミュニケーションが成立しているということは、双方の「中の私」を認め、中の私が並立する世界像を認めているということ・・。

 

2.4~7段落

「未来において未来」を救い出すためには、「『過去の過去』において、未来において未来」とせねばならず、3分割ではなく5分割が必要な気もするが、本質的な問題ではないですね。

 

3.19段落

「人生のあらゆる問題の根源である」とは!!!