中心的な問題へ
【要約】
1段落(237頁)
中心的な問題には二重性があって、一重目は人称や様相にも起こるような、この世界のあり方と言語のあり方との矛盾に由来する一般的な問題だが、二重目は時間の場合にしか起こらない独特の問題である。この二つはもともと同じ問題だったが、一重目のほうはその問題が言語で表現されたときに、問題の一般的な側面が際立たせられたにすぎない。
2段落(238頁)
第11章の193頁にある二本の物差し(数列と文字列)がずれていく図において、Iが+1から0へと動くとき、0を現在という特別の一点と取れば、これはIが現に起こるというきわめて特別の事態を意味するが、0が単に表記上の原点にすぎなければ、それはGが-1から-2へと動くこととまったく同等な意味しか持たない。
3~4段落(239頁)
0を現在という特別の一点と取ることを、0が〈私〉であることと類比的に考えてみる。〈私〉が体験する出来事だけが端的に特別の意味を持つことは疑う余地のない真実であるが、他者たちは、「それはあなたにとってそうであるにすぎない」とこれに反対し、「各人にとって各人の体験する出来事がそれぞれ特別の意味を持つ(なぜなら、だれもが、その人にとっての他者が体験している出来事を体験できないのだから)」と付け加え、「そういう一般的な事実があるにすぎない」とまとめるであろう。〈私〉はこの言い分を理解しつつも、現実にはそのようにすべてを対等に見る視点に立つことは決してできない、ということは決して譲れない。そこを譲れば、たくさんの生き物はみな対等に存在するだけになってしまい、世界は原点を失い、存在しないのと同じことになってしまうからだ。
5段落(240頁)
このような〈私〉の言い分がA系列的な世界像に対応するとすれば、前段落の他者たちの言い分はB系列的な世界像に対応することになる。
6段落(240頁)
ここまでの類比で、〈私〉に対応する〈現在〉はあくまでも動く現在だから、他者に対応するのは、「決して〈現在〉とはならない時点」のことであった。しかし実際にはどの時点も、過去や未来において〈現在〉であった(〈現在〉となる)。これは「動く現在」の他者ではなく、その動きの内部における「端的な現在」の他者である。私と私以外の人の対比をこの二つのどちらにも類比できるところに、人称問題と時制問題の根本的な相違が示されている。
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【感想】
1.3~4段落
〈原点〉をもつことが存在することの条件!というか〈原点〉とは存在のこと。