永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

それでも時間は特別である

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それでも時間は特別である

【要約】

1~2段落(250頁)

それにもかかわらず、時間にはやはりまったく特別のところがあって、人称と時制の隔たりは大きい。時制について、まず「いつでもその時点は現在である=いつでもその針が指している時点が現在である(そしてそれ以外の時点が過去と未来である)」という捉え方があって、これは、人称・様相においても同じ捉え方が可能である(だれでもその人は私である、等)。しかし、それ以外の時点も、針がそこを指すときには現在であり、そのときに指されていない時点は過去か未来である。「現在」がこのような二重構造をもつことこそが、人称その他の場合には存在しない、時制に固有の「矛盾」なのである。

 

3~6段落(252頁)

上記の「だれでもその人は私である」とは、そう捉えざるをえない(それ以外の捉え方がない)、という意味であり、これと現実の〈私〉とはもちろんレベルが異なる。マクタガートの提起した問題も、(現実の現在の出来事も未来においては過去である、という)「言い換え」の後では、その種の一般的な独在性の問題と解釈可能である。しかし元来の彼の問題(現実の現在の出来事は過去になる)は、仮にそう想定してみるというレベルの話ではなく、端的な現実である。そもそものA系列という捉え方においては、現在は本質的に動くのであるから「動く現在」自体が現実であり、過去になる、の「なる」は、その現在の本質そのものを表現している。現在が動くものなら、どんな出来事も、本質的に現在でも過去でも未来でもあることになる。

 

7段落(254頁)

現在が本質的に動くものなら、その動く現在は今どこにいるのか、という問いが成り立つ。そしてこの今もまた本質的に動くものであるなら、その今は今どこにいるのか、という問いが成り立つ。

 

8段落(255頁)

187頁のA系列の図は動画として理解されなければならないが、であれば、「その針は今どこにいるのか」という問いを免れえない。われわれはその動きを見ることによっていわば止めるが、それが唯一の特権的今であるという事実を、動画であれ、言葉であれ、表現する方法は存在しない。その今は極限的に貧しい(存在しない)からである。

 

9段落(255頁)

今は、××年××月××日だ、何よりの証拠は現実にはそれしか存在していないからだ、と言いたいところだが、それを言って、そのことに同意する相手が原理的に存在しないがゆえに、それは言えない。

 

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【感想】

1.3~6段落

上記の「だれでもその人は私である」とは、そう捉えざるをえない(それ以外の捉え方がない)、という意味、というのも大事ですよね・・。

 

2.8段落

それが唯一の特権的今であるという事実を、動画であれ、言葉であれ、表現する方法は存在しない、というのも大事ですよね・・。