それでも時間は特別である
【要約】
1~2段落(250頁)
それにもかかわらず、時間にはやはりまったく特別のところがあって、人称と時制の隔たりは大きい。時制について、まず「いつでもその時点は現在である=いつでもその針が指している時点が現在である(そしてそれ以外の時点が過去と未来である)」という捉え方があって、これは、人称・様相においても同じ捉え方が可能である(だれでもその人は私である、等)。しかし、それ以外の時点も、針がそこを指すときには現在であり、そのときに指されていない時点は過去か未来である。「現在」がこのような二重構造をもつことこそが、人称その他の場合には存在しない、時制に固有の「矛盾」なのである。
3~6段落(252頁)
上記の「だれでもその人は私である」とは、そう捉えざるをえない(それ以外の捉え方がない)、という意味であり、これと現実の〈私〉とはもちろんレベルが異なる。マクタガートの提起した問題も、(現実の現在の出来事も未来においては過去である、という)「言い換え」の後では、その種の一般的な独在性の問題と解釈可能である。しかし元来の彼の問題(現実の現在の出来事は過去になる)は、仮にそう想定してみるというレベルの話ではなく、端的な現実である。そもそものA系列という捉え方においては、現在は本質的に動くのであるから「動く現在」自体が現実であり、過去になる、の「なる」は、その現在の本質そのものを表現している。現在が動くものなら、どんな出来事も、本質的に現在でも過去でも未来でもあることになる。
7段落(254頁)
現在が本質的に動くものなら、その動く現在は今どこにいるのか、という問いが成り立つ。そしてこの今もまた本質的に動くものであるなら、その今は今どこにいるのか、という問いが成り立つ。
8段落(255頁)
187頁のA系列の図は動画として理解されなければならないが、であれば、「その針は今どこにいるのか」という問いを免れえない。われわれはその動きを今見ることによっていわば止めるが、それが唯一の特権的今であるという事実を、動画であれ、言葉であれ、表現する方法は存在しない。その今は極限的に貧しい(存在しない)からである。
9段落(255頁)
今は、××年××月××日だ、何よりの証拠は現実にはそれしか存在していないからだ、と言いたいところだが、それを言って、そのことに同意する相手が原理的に存在しないがゆえに、それは言えない。
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【感想】
1.3~6段落
上記の「だれでもその人は私である」とは、そう捉えざるをえない(それ以外の捉え方がない)、という意味、というのも大事ですよね・・。
2.8段落
それが唯一の特権的今であるという事実を、動画であれ、言葉であれ、表現する方法は存在しない、というのも大事ですよね・・。