永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

出発点の「現在」をどう理解するか

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出発点の「現在」をどう理解するか

【要約】

1~2段落(256頁)

いま提示したこの問題と、先ほど提示した「言い換え」の後の「矛盾」とを、同じ問題だと見る見方ももちろんあり、且つ、複数ありうる。その一つは、〈今〉を〈私〉に対応させ、「動く現在」の軌道上にある諸現在を一般的な私(=他者)と対応させる、という見方である。

 

3~4段落(257頁)

もう一つの見方は、動く現在そのものに極限的に〈貧しい=豊かな〉という特別な地位を与え、そのような特権的な「動く現在」線上にはない時点を「可能な現在」とみなす見方である。この場合、その「可能な現在」を「可能な動く現在」として想定することもできる。つまり時間の場合には、端的な現在と端的なこの動く現在の、二種の端的な現実性があり、その二種間で端的さの覇権争いが生じる。それだけでなく、そのそれぞれにかんして現実性をめぐって人称や様相の場合と同じ種類の「矛盾」もふつうに生じるので、二者のあいだの覇権争いもそれの一種であるとの解釈も可能になる。哲学探究第十四回の執筆という出来事が、端的に現在であるとともに過去でも未来でもあるという「矛盾」は、端的な〈現在〉と動く現在のあいだの矛盾を問題にしているとも取れるが、〈動く現在〉とそれにとっての他の可能性を問題にしているとも取れ、(現実の現在の出来事も未来においては過去である、という)「言い換え」の後では、どちらに取っても同じ問題になってしまう。

 

5段落(259頁)

動く現在そのものを〈動く現在〉と見る場合、可能な現在を可能な動く現在として想定するにせよ、そんな限定はしないにせよ、動性はすでに現実性のうちに組み込まれているので、可能性はその外の(現実の動性とは無関係な)単なる可能性とならざるをえない。これに対し、その動きの中の一時点を〈現在〉と見る場合には、可能な現在には二様の解釈がゆるされることになる。ひとつは、その動きのことを可能な現在とみなす、という解釈であり、もうひとつは、動きとは関係なしに、単なる論理的な可能性として可能な現在を考える、という解釈である。どちらを取るかによって、たとえば「未来における過去」の意味も変わる。単なる可能性なら、それは「かりに未来に視点をおいた場合のそこから見た(=そこをかりに現在と見なした)過去」の意味になるが、動きの場合なら、「現実に未来が現在になった時点におけるそこから見た(=現実に現在から見た)過去」の意味になる。

 

6段落(259頁)

すると、四つの組み合わせがありうることになる。第一に、現実の現在を現に現在である特別な一時点とみなし、可能な現在をその現在の動きとは無関係にともあれ(現実に現在ではないが)現在であることが可能な時点とみなす解釈。第二に、現実の現在を現に現在である特別な一時点とみなし、可能な現在をその現実の現在の動き(すなわち動く現在)とみなす解釈。第三に、動く現在そのものを現実の現在と見なし、可能な現在を現実の現在の動きとは関係なくともあれ(現実に現在ではないが)現在であることが可能な時点とみなす解釈。第四に、動く現在そのものを現実の現在と見なし、可能な現在をそれとは別の可能な動く現在とみなす解釈。

 

7段落(260頁)

四つのうち第一と第四は、人称や様相との類比がきれいに成り立つ、「かりに」の想定であって、(現実の現在の出来事も未来においては過去である、という、)「言い換え」後の表現に整合的である。第二と第三は、人称や様相との類比が成り立たない、「かりに」ではないある種の現実性であって、(過去になる、という、)「言い換え」前の表現に整合的である。

 

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【感想】

1.3段落の原文に「つねに1時間前が現在であった可能性」とあるが、この「1時間」に意味は与えられるのか。今の動きの「速さ」に意味が与えられないのと同じ意味で意味が与えられないのではないか。

 

2.7段落

「時間の非実在性」204頁に、「A系列の過去・現在・未来には、「端的・絶対的」「動的・変化的」「概念的・相対的」の少なくとも三つの捉え方がある」、とある。

そして2017.2.20の永井Twitterには、「(「時間の非実在性」は)『存在と時間-哲学探究1』よりはかなりレベルを落としてはいるが。最大の迎合点は,204頁にある第2と第3の矛盾を全く論じていないこと」とある。

「時間の非実在性」を読む人は注意すべきかも。