永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

現在(今)が動くとはどういうことか――現在と「針」――

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現在(今)が動くとはどういうことか――現在と「針」――

【要約】

1段落(260頁)

そうするとやはり、時間に固有の問題は現在が動くという不思議さに絞られることになる。これは、私と同様に安倍晋三もまた彼にとっては私であるという問題ではなく、いうなれば私は安倍晋三でもあるという問題である。私は安倍晋三になることができなかったが、現在は現在のままでまったく別の時点に、まったく別の出来事になることができる。

 

2段落(260頁)

現在であることを維持したまま、世界は状態Iから状態Jに変わるとしても、もしIが現在ならばJは未来だし、Jが現在ならばIは過去であろう。この両立性と背反性のあいだには明らかな矛盾がある。どうして現在が維持されたまま世界がIからJに変わるなどと言えようか。

 

3段落(261頁)

一つのポイントはこうだろう。現実に存在することが本質であるものなど(本質の本質からして)ありえないにもかかわらず(いわゆる「存在論的証明」のときのように)神は現実に存在するというそのことを本質とする、といわれることがある。これと同様に、端的にこのこれであることがその本質であるものなど(「これ性」と対比される「何性」こそが本質の別名なのだから)ありえないはずなのに、今(や私)はこのこれであることをその本質(の一部)とするような概念である。その場合の「これ」は、すでに一般的な領域を前提にしておいて、その中の一つの事例をピックアップするということではなく、文字通りただ一つ「これ」しかないということを意味する、極限的に〈貧しい=豊かな〉存在者なのであった。にもかかわらず、いったんそのような存在者として捉えられてしまえば、そのこと自体を一般化することができる(だからこそ「本質」に組み込める)。するとただ一つこれしかないはずのものが無数に存在することになり、このことに反論しようとして、「現実に存在するのはこのこれだけだ」と言うなら、「このこれ」もまた多数あるもののうちの一つに格下げされるのであった。

 

4段落(262頁)

とりわけ「現在(今)」の場合は、元来のA系列の定義そのものによって、それは本質的に動くのだから、その動きを捉えうる視点に立てば、その無数の「現在(今)」は対等に存在せざるをえないことになり、したがってたんに可能的に存在しうるのではなく現実に存在することになるだろう(このことを端的な現在についてではなく端的な動く現在について言うことはでき、その場合にもやはり、ある意味では無数の「現在」が対等に存在しうることにはなるが、この場合には、「単に可能的に存在しうるのではなく現実に存在する」ことになりはしない。(象徴的に言うならば)他の動く現在と言語的やり取りはできないからである)。そうだとすると時間は、ただこれしかない(自余のすべてはその内部にある)はずのものが、次々と連接して――という意味で「これしかなさ」が次々と消されて――存在する、というきわめて特殊な、動的な矛盾を孕んだあり方で存在していることになるだろう。どうしてそんなあり方が可能なのであろうか。

 

5段落(263頁)

ともあれ、この場合にもなぜか、われわれには根本的に異質なはずのこの二視点――これしかなさの内部からの視点とその連接を外から見る視点――を行き来する能力がある。この二視点の往還を象徴的に表現しているのが、あの「針」である。「針」はそれ自体動くとともに、動きの中の一点を指しもすることによって、〈今〉を客観的に実在する系列のどこかに位置づけて、そこを指す役割を果たす。

 

6段落(264頁)

ところでしかし、そもそもその客観的に実在する系列とは何か。現在(今)の動きに速さがないことからも明らかなとおり、現在(今)がその上を移動していくと言えるような、あらかじめ存在している、「現在(今)の移動とは独立の出来事系列」ではない。それにもかかわらず、「針」で表象されるわれわれの現在(今)の移動は、その移動とは独立の、それがその上を移動するその何かを、まさにその移動の内部から、作り出すことができるのである。言ってみれば、針が文字盤を作り出し、そのことによっておのれに針としての機能を与えるわけである。

 

7~8段落(264頁)

なぜそのようなことが可能なのかといえば、われわれの世界にははじめから、偶然にも、天体運動等の、時間を計るのに適する周期的運動(時計)が存在するからであろう。これは偶然的事実だからないこともあり得た。もし外界に「時計」がなく、さらに法則性も何らなければ、たとえ現実に記憶が心に生じたとしてもそれを記憶として捉えることさえできないだろう。記憶表象以外の何らかのルートによってその表象の過去性がサポートされなければ、それが記憶である(過去に起こったことを再現している)と信じるべきいかなる理由もないからだ。すなわちその表象から独立した過去なる実在を想定すべき理由がないのだ。その場合、時間の経過というものを理解することはできないだろう。

 

9段落(265頁)

だから、こう言うことができる。現在(今)の移動が、その内部から、その移動とは独立に存在する、それが移動する空間を作り出すことができたのは、おのれを移動する針と見立て、継起する出来事連鎖の側を、その内部のつながりを根拠にして、外部にある客観的な文字盤のごときものとして再構成することに成功したからである、と。

 

10段落(266頁)

そもそも現在(今)は、外部から捉えられる動く一点ではなく、その動きを位置づけるための空間のような外的秩序も存在しないから、少しも動く針などには似ていない。そんなものとは似ても似つかぬ「これしかない」という極限の豊かさを持った全く類例のない存在者である。この類例のないものを針のごときものに模し、おのれを位置づけ計測できるものに仕立てあげることによって、これしかないものが次々と連接して存在するという、類例のない構築物が出来上がることになった。これは、それこそがわれわれの文明の基礎をつくったといえるほどの画期的な出来事であったろう。

 

11段落(266頁)

しかし問題はここから始まる。ひとたび針と見立てられてしまえば、先の落語のような「で、その現在針は今はどこにあるんだい?」という問いを避けることはできない。しかもその「今」のほうだって今である以上必然的に針でもあることになる。

 

12段落(266頁)

このことはまた、A系列をB系列から分かつ二つの基準(第一の基準=B系列が二つの時点のあいだの関係であるのに対して、A系列は一つの時点がそれだけで単独にもつ性質。第二の基準=B系列が時間の経過によって変化しないのに対して、A系列は時間の経過によって変化する。)が「現在(今)」の二つの側面を表現していて、そのあいだに矛盾がある、ということでもある。

 

13段落(267頁)

もしそういえるなら、A系列の本質と考えられている「現在(今)が動く」(出来事が未来・現在・過去とA変化する)という考えは、むしろ(通常はまさに動性の否定こそを本質とするとみなされている)B系列の本質なのではないか。

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【感想】

端的な動く現在においては、端的な現在と違い、無数の今が可能的に存在しうるのみで、現実に存在しうることにはならない。その理由として、4段落の注に、「他の動く現在は、他の可能世界と同様、対等の存在者として現実の動く現在に話しかけてはこないからである」と書かれています。