永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

(無題)

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第17章 〈私〉と〈今〉の違いを語りの原理と繋がりの原理の対比から考える

 

(無題)

【要約】

1段落(305頁)

「なぜ世界はいつもつながっているのか」という問いは「なぜいつもこいつが私なのか」という問いの一部であり、後者は謎である。

 

2段落(305頁)

私の存在の第一基準と第二基準の存否の組み合わせにより「つながっていないのに私である」場合や「つながっているのに私でない」場合も考えられる。

 

3段落(306頁)

ただしこれは第一基準の優位性を前提とした呼び方である。第二基準ではつながりが「私」を作り出すとみなすのだから、上記の二つの「場合」は考えられない。

 

4段落(306頁)

私が安倍晋三になれないのは、私の存在の第一基準を前提に、もしなったら、なったという事実が必然的に消滅するからであった。まず第一基準が前提され、その後に、それの連続性はそれ自身の記憶によってのみ保証される、という条件が付されるわけである。

 

5~6段落(306頁)

私の「生まれ変わり」は、第一基準によってのみ可能な事態とみなすことができる。

 

7段落(307頁)

このように、第一基準に優位性を認める見地はありふれた常識的な見地である。

 

8~10段落(308頁)

「つながっているのに私でない」の例としては、たとえば、2分裂した場合の〈私〉ではない他方(永井A)、が挙げられる(ここで、永井Aにとっては彼の側が第一基準の私になるのではないかと言ってはいけない)。

 

11段落(309頁)

分裂の思考実験により、「つながっているのに私でない」人が存在可能であることがわかった。問題は、もしそうなら、分裂などしない場合でも、「つながっているのに私でない」人は存在可能だということだ。

 

12段落(310頁)

たまたまなぜかこの世界ではその二つの基準が連動しているからといって、二つの基準は独立なのだから、それが可能であることはある意味では自明である。

 

13段落(310頁)

もしそうなら、たまたまなぜかいま私である永井均という人が、この文章を書いている途中でなぜか私ではなくなって、たんなる永井均という人になってしまうことも起こりうることになる。

 

14段落(310頁)

その場合、私は人知れず死んだといえるのか。以前と問題なくつながって存在しつづけている以上、私は決して死ねないのだ、と考える立場(第二基準主義)は分裂の思考実験の示すところと折り合いが悪い。しかし分裂の思考実験には、端的な私が別に存在している、という条件が隠されている。今想定しているのはそれが存在しないケースだから(対抗馬がないケース)、第二基準主義はじゅうぶん有効に機能するのではないか。

 

15段落(311頁)

しかしそうだとすると、分裂後、なぜか私になった方の永井Bがほどなく死んだ場合、対抗馬がなくなり、私は永井Aになる、そしてもともと永井Aだったことになる、ということが起こり得ることになってしまう。つまり私は死んでも死なない。そんなことがありえようか。

 

16段落(311頁)

分裂を考えずとも、私が普通に死に、その数年後に私の死の直前までの記憶をもった生き物が偶然生じた場合を想定しても、第二基準主義によればその生物は必然的に私であることになる。そんなことがありえようか。

 

17段落(312頁)

そう考えると私には第二基準主義がもっともらしいという感じはあまりしなくなる。私のあずかり知らぬところで私とまったく同じ記憶を持っている人が存在することは十分可能だと思えるし、私の死後に現在の私と同じ記憶をもった人間が生じてもそいつが私であるとはかぎらないように感じられるからだ。要するに、私とまったく同じ記憶をもった(私と完全に心理的に連続した)少しも私でない人間の存在は、問題なく可能だと思われる。ということはつまり、その人がまた私でもあるとすれば、第一基準が独立に働かなければならない、ということになる。

 

18段落(312頁)

とはいえしかし、これに対してさらにこう反論することができるかもしれない。そう感じるのは、その人とは別に現に私が存在していて、その視点から問題を考えているからだ、と。それを外して考えることがもしできたなら、そこにおいては第二基準主義が実効性を持たざるをえないはずである。そして仮に考えてみるときではなく、実際に起きるときには、状況はまさにそうなっているはずではないか、と。

 

19段落(313頁)

以上のような思考実験は、第二基準だけで私たりうるか、という問題であり、私が安倍晋三になる、という思考実験は、第一基準だけで私たりうるか、という問題である。どちらも条件つきではあるが、前者は否定され、後者は肯定された、といえる。後者の場合、移動の事実は実在しなくなる(連続性は移動先から構成されてしまう)という意味で、むしろ極めて強く肯定された、といえる。すなわちこれは第一基準の優位性の主張であり、第二基準は第一基準に従属せざるをえない(逆の依存関係はない)という主張なのである。

 

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【感想】

この節と次節は永井さんの基本的問題意識が再度整理されていて、読者が独在性問題の出発点を理解するためにも使えると思います。

これは〈私〉の持続の問題ですが、これが〈私〉の問題と〈今〉の問題にどのような関係があるのかが大きな問題と思われます。

〈私〉が持続するとはどのような事態を指しているのか。

〈私〉は、そもそも/なぜ/どのように、持続するのか。

〈私〉の持続と〈今〉が動くことは、同じことなのか、どちらかがどちらかの原因なのか、無関係なのか。

持続しない(=時間的幅を持たない=瞬間の)〈私〉はありうるのか(意味は与えられるのか)

以上の問題群と記憶はどのような関係にあるのか。