永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

〈今〉に適用すると

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〈今〉に適用すると

【要約】

1段落(313頁)

同じ問題を現在(今)に適用し、「これまでとつながっているのに今でない」場合と「これまでとつながっていないのに今ではある」場合を考える。

 

2段落(313頁)

後者は、今突然10年前に戻ろうと、100年後に跳ぼうと、その事実はどこにも刻印されないという意味で、私が安倍晋三になる場合と本質的には同じことだろう。

 

3段落(314頁)

それが起こったとしてもそうと分かることがありえないのだから、このような想定は不可能(想定自体に意味がない)と見る見方も十分に成り立つ。しかし逆にいえば、それは〈今〉の力があまりにも(われわれの検証能力を超えて)強いことの証しだともいえる。なぜか〈今〉が(すべての過去の記録をその内にのみ内在させて)現にここにある、という事実の圧倒的力のまえには、何ものも対抗できないという事実を、それは示している。

 

4段落(314頁)

前者を考えるのに、分裂の思考実験は使えない。今がその内容を変えずに二つに分裂し、その一方だけが現実の今である、という状況は想定不可能だからだ。

 

5段落(315頁)

しかし、移動の思考実験で私でなくなった永井均が、分裂の思考実験で私でなかった永井均同様「つながっているのに私ではない」人物であるように、今の分裂は考えられなくとも、今の移動後になぜか今でなくなってしまった時点を「つながっているのに今ではない」時点として想定してみることはできる。

 

6段落(315頁)

しかし、分裂と違って移動の場合、その事実は消えてしまうのだから、そういうことが起こっているとわかる視点自体が存在しない。だからこの問題設定は、「実は(リアリー)そういうことが起こっている」という超越的な実在論(リアリズム)の視点からなされざるをえない。(それゆえ、想定自体無意味だとどこまでもいえる。)A系列をB系列から分かつ二つの基準(動性・変化の基準と端的な現在の存在の基準)との関係でこのことの意味を考えるなら、時点が未来⇒現在⇒過去と変化するという変化の基準よりも、唯一の端的な現在によって未来と過去が分かたれる、という端的さの基準のほうが優先する、ということである。このことからも「A系列」という概念が合成的なものであることがわかる。

 

7段落(316頁)

しかしこれもまた、端的な対抗馬が存在していなければ、〈今〉にかんしても〈私〉の第二基準主義にあたるものが十分に力強いのではあるまいか。私がふつうに死んだ後、何年かしていきなり生前の私の記憶をもった生き物が生じてしまった場合、第二基準主義に従えば、その生き物は第一基準の意味でも私であらざるをえないことになるのと同様、いつであれ、今と内容的にすぐ続く状況が起こってしまえば、それはまさにそのことによって、この今に続いて今とならざるをえないのではあるまいか。

 

8段落(316頁)

端的な現在には(端的な私にも)、第二基準主義(繋がり主義)的な敵と、可能主義的な敵の二種類の敵が存在するのである。

 

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【感想】

8段落

「端的な現在には(端的な私にも)、第二基準主義(繋がり主義)的な敵と、可能主義的な敵の二種類の敵が存在する」事態を、人称、時制、様相の三つ巴として表現できるか・・・