永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

風間くん問題との対比

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風間くん問題との対比

【要約】

1段落(316頁)

可能主義的な敵の姿をはっきりさせて繋がり主義的な敵との異同をはっきりさせるために、「風間くん問題」に触れておく。

 

2段落(317頁)

彼(風間くん)の「質問=批判」を、私はこう理解した。私は「なぜこいつが私なのか」と問う場合、そいつが私ではなくただの永井均であったとしても、まったく同じ問いを問うであろう。それゆえ、彼は(第一基準の意味で)私でなくなることはできないのではないか。(なお、これを、「そいつが私ではなくなりただの永井均なったとしても、まったく同じ問いを問い続けるであろう」に変えれば、第二基準主義(繋がり主義)のほうの問題に変わることに是非とも注目していただきたい。)

 

3段落(317頁)

この章において「〈今〉に適用すると」の節まで論じてきた問題は「繋がりの原理」にかんする問題で、本節で提起されている問題は「語りの原理」にかんする問題である。それは、第一基準と第二基準のあいだの矛盾の問題ではなく、第一基準そのものに含まれる矛盾の問題なのである。(しかしもちろん、第一基準と第二基準が共存しうるのは第一基準そのものに矛盾が内在しているからなのだ、と主張することは十分にできる。)

 

4~5段落(318頁)

この問題は、まさに独在性の核心的問題であり、神の存在の「存在論的証明」に対するカントの批判において問題にされていることと同じ問題である。この批判のとおり、内容的規定をいくら重ねても独在性は出てこないのであれば、第一基準が所詮内容的規定に関する(誰にでも当てはまる)基準である以上、風間くんが言うように、私でなくなることはできないことになり、私の場合も神の場合も、それが現実に存在することを現実に存在しない場合と対比して驚き(タウマゼイン)を感じることはできないことになる。

 

6段落(319頁)

ところが、その後、風間くんから直接聞いたところによれば、私のこの紹介は正確ではなく、彼が言いたかったのは、「それゆえ、彼は(第一基準の意味で)私でなくなることはできないのではないか」ではなく「それゆえ、私はその問いを問うことはできないのではないか」であったらしい。問題の本質が変わるわけではないが、ある点で彼の原型の方が優れている。原型は、なぜ私はこの問いを言葉を使って問えるのか、という重大な問いがストレートに問われているからである。私の問いと私でない永井さんの問いは、あらゆる意味でまったく同じ問いであるとともに、ある決定的な点でまったく違う問いである。なぜ言葉を使ってその差異を問うことができるのか。なぜ、神が現実に存在する(しない)ことを、存在論的証明の正しさを超えて、語りうるのか。

 

7段落(320頁)

同じことは〈今〉についてもいえる。私は現に今ここで、なぜこれが今なのか、と問うている。だがそれが今でなかったとしても、「なぜこれが今なのか」というまったく同じ問いが問われるであろう。それゆえ、その時点は、今でないことはできないし、「なぜこれが今なのか」と問うことはできない。ところで、この「今でなかったとしても」を「今でなくなっても」に置き換えても、私の場合と違い、第二基準主義(繋がりの原理主義)のほうの問題に変わるわけではない。なぜならそれはごくふつうに今でなくなるからである。この点にこそ、〈私〉の問題と〈今〉の問題の決定的な違いがある。

 

8~9段落(320頁)

私が本当に問いたいのは、ただの永井均さんにも問える問いではなく、今において本当に問いたいのは今がいつであっても問える問いではないのだが、そういう問いしか問いえない。と、同列に論じたいところなのだが、今(現在)の場合は、ここで問われていることがたんなる可能性の問題ではなく、実際にも起こるのだ。永井均は現実には私でなくならない(ように必ず見える)が、2015年9月9日の夜は現実に今でなくなる(ように必ず見える)からである。前者の執拗な付着も気を滅入らす事実だが、後者の絶えざる離脱も薄気味の悪い事実だ。

 

10段落(321頁)

今(現在)の場合、現実の時制変化(現実に現在が動く!)という事実が、〈現実的-可能的〉という対比を、たんなる想定上の事柄ではなく(その特殊形態として)現実化させており、しかもそれが繋がりの原理とも接続しているわけである。時間の問題にかんして、本書で論じ残された重要な課題は、その接続のあり方である。

 

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【感想】

1.風間くんが問いたかったこと

風間くんは、

①なぜ問えているのか、と疑問をもったのではなく、

②問いがうまく表現されていない、と批判したのでもなく、

③現に問えていない(問えていると思っているのは勘違いではないですか)

と批判したのだと思う。

問う段階より前の、思う段階で、すでに思えていない(思っていると思っているのは勘違いだ)という意味で。

 

2.風間くんの「質問=批判」について

(1)永井さんが理解した問い

いま現実になぜか〈私〉である永井均が、かりに〈私〉でなくただの永井均という人であったとしても、〈私〉でないその永井均さんも、この現実と全く同じように「なぜ永井均が〈私〉なのか」と問うであろうから、彼は(第一基準の意味で)〈私〉でなくなることはできないのではないか。

(2)その第二基準主義(繋がり主義)への変形

いま現実にはなぜか〈私〉である永井均が、かりに〈私〉でなくなりただの永井均になったとしても、〈私〉でないその永井均さんも、この現実と全く同じように「なぜ永井均が〈私〉なのか」と問い続けるであろうから、彼は(第一基準の意味で)〈私〉でなくなることはできないのではないか。

(3)風間くんの原型1(独在性の対象化の問題。独在性を問えるか。)

いま現実にはなぜか〈私〉である永井均が、かりに〈私〉でなくただの永井均という人であったとしても、〈私〉でないその永井均さんも、この現実と全く同じように「なぜ永井均が〈私〉なのか」と問うであろうから、私はその問いを問うことはできないのではないか?

=〈私〉でない人でも問える問いであれば、そもそもその問いに〈 〉の成分は含まれていないはずではないか。

 (4)風間くんの原型2(独在性の対象化の問題。独在性を問えるか。)

いま現実にはなぜか〈私〉である永井均が、かりに〈私〉でなくただの永井均という人であったとしても、〈私〉でないその永井均さんも、この現実と全く同じように「なぜ永井均が〈私〉なのか」と問うであろうから、最初の問いも、問うべき対象を欠いたナンセンスな問いではなかったのか?

=〈 〉なんて、勘違いではないのか。

 

(5)以上(1)~(4)、微妙に違う問いだと思うが、いずれも

「その永井均さんも言葉のうえでは現実の私と同じく「なぜ永井均が〈私〉なのか」と問うであろうが、それは私が現在問うている(字面の上では全く同じ)問いと実は同じ問いではない。なぜなら、まさにその違いこそがこの問いで問われていることそのものなのだから。」

という応答が、決定的反論になっていると思う。内容的規定を超えた違いはあるのだと。

つまり、風間くん問題とは、私的(=独在的)言語の不可能性の問題なのではないでしょうか。

 

3.驚き(タウマゼイン)を感じることはできないか

(1)痛みについて

ケガをした場合、ただの永井均さんも痛いであろうことを理由に、 

「〈私〉でない人でも感じる痛みであれば、そもそも〈この痛み〉に〈 〉の成分は含まれていないはずではないか。」

と疑問を感じる人はいないであろう。

この痛みを否定しようはないのだから。

(2)驚きについて

しかし、驚きや問いについては、ただの永井均さんも驚いたり問えるであろうことを理由に、

「〈私〉でない人でも問える問いであれば、そもそも問いに〈 〉の成分は含まれていないはずではないか。」(ナンセンスな問いではないか)

とか

「〈私〉でない人でも驚ける驚きであれば、そもそも驚きの対象(驚いた、その当のもの)に〈 〉の成分は含まれていないはずではないか。」(勘違いではないか)

という疑問が生じる。

「問い」や「驚きの対象」の中に含まれる独在性は概念化してしまっている、とも言えるから。

しかし、独在的言語は不可能でも、それを理由に、「問うことはできない」「驚くことはできない」と言って良いのか。(現に問い、現に驚いているではないか。)