付録 風間くんの「質問=批判」と『私・今・そして神』
【要約】
1~4段落(329頁)
風間くんの批判=質問とは、「いま現実にはなぜか〈私〉である風間維彦が、かりに〈私〉でなくただの風間維彦という人であったとしても、〈私〉でないその風間維彦さんも、この現実と全く同じように「なぜ風間維彦が〈私〉なのか」と問うであろうから、風間維彦は〈私〉でないことはありえないのではないか?」というものである。この批判=質問のおかげで、私は西洋哲学史全体を実感として掴んで「哲学者」になれた。
5段落(330頁)
西洋哲学史全体を実感として掴むことができたのは、「神の存在論的証明をめぐる哲学史上の諸説、現実世界の位置をめぐる可能世界論における対立、A系列とB系列をめぐる時間論上の議論、そしてコギト命題の解釈をめぐる論争、これらがすべて同じ一つの問題をめぐっていることはまずまちがいないことだと私は思(『私・今・そして神』)」っているのだが、風間くんの批判=質問は、その「同じ一つの問題」を射抜いていたからである。
6~8段落(331頁)
彼のこの問いに対する私の応答を、「風間維彦」を「永井均」に置き換えて表現するなら、それはこうなる。「その永井均さんも言葉のうえでは現実の私と同じく「なぜ永井均が〈私〉なのか」と問うであろうが、それは私が現在問うている(字面の上では全く同じ)問いと実は同じ問いではない。なぜなら、まさにその違いこそがこの問いで問われていることそのものなのだから。」そして、存在論的証明にも、可能世界にも、A系列にも、みな全く同じことがいえる。それが私の哲学的主張である。
9~10段落(332頁)
「なぜ世界は存在するのか」という論文(『哲学の密かな闘い』所収)で述べたように、諸種の認識論的・懐疑論的問題や志向性をめぐる諸問題もまた同じ構造を反復している。そしてもちろん、ウィトゲンシュタインの「語りえぬことについては沈黙しなければならない」とはこの事情を指して言われた言葉なのである。