永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

現実主義と可能主義

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現実主義と可能主義

【要約】

1段落(276頁)

坂下門外の変の例に話を戻す。このような議論は例にとった出来事連鎖が全体として過去だから言えることなのではないか、と問われた場合、その意味するところが、それらすべてが端的に過去である事実はどう扱うのだ、という趣旨であれば、それはまさに「で、その現在は今はどこにいるんだい?」のほうの問題である、と答えられる。

 

2~3段落(277頁)

もしこの疑問が、例が過去ではない場合にも同じことがいえるのか、という疑問であれば、もちろんいえる、と答えられる。全体として未来に位置していようが、B関係はA変化を別の仕方で記述したもの(A変化とB関係は、同じ事態の別の描写)であることに変わりはない。

 

4段落(278頁)

しかし、関係はつねに成り立っていても、変化は必ずある時に起こるのだから、同じ事態の別の描写とは言えないのではないかという疑問が成り立つ。たしかに、(未来である)今年の12月に起こるはずの、「ピーターパンの日が、最初は未来であり、次に現在となり、最後に過去となる」という変化それ自体が〈未来⇒現在⇒過去〉という変化を被り、しかもそれ自体未来においてである。

 

5段落(279頁)

この二段階構成は不可避である。世界は、現実にはある一点からだけ開けているにもかかわらず、形式的には同じことがどこからでも成り立っているように扱わねばならない(そのような捉え方をすることこそが理性(ロゴス)をもつということである)、という二段階構成が避けられない側面を持っているからだ。この側面に直面した場合、必ず、どちらか一方で済まそうとする考え方の対立が登場する。それは、「現在」にかんしては、どの時点もその時点にとっては現在であって、それに尽きる(累進図に最上段はない)という考え方と、ただ一つ端的な現実の現在だけが現在であって、それ以外に現在はない(累進図には最上段があってそれだけが実在する)という考え方の対立なのである。可能世界についての議論から用語を借りて、前者を可能主義、後者を現実主義と呼ぶことにしよう。問題はむしろ、この対立はけっしていま述べたような平板な対立ではない、ということにある。

 

6段落(280頁)

対立が平板でない理由は、ふたつの仕方で提示できる。ひとつは、現実主義も表現されてしまえば可能主義に帰着する、という提示である。先の例で言えば、これから現に起こるほうこそが唯一の現実のA変化だ、と言われてしまえば、B関係しか表現できていない。

 

7~8段落(280頁)

もう一つの提示の仕方は、現実主義を前提しないことには可能主義を考えることができない、という提示である。時間についていえば、端的な現実の現在の存在を前提しないことには、そもそも時間というものを考えることができない。もしこれを前提しなければ、本当に単なる針のようなもの(それがその上を動く、それとは独立の空間のごときものを背後にもつ、外部からその動きを見ることができるひとつの動く物体)になってしまい、その動きは普通の動きに、したがって時間の経過という特殊な変化は普通の変化になってしまう。逆にもし時間というものがそのような前提なしにはそもそも考えられないものであるならば、可能的なA変化(=B関係)であっても、すでにそのような不可思議な現在の存在が暗に前提されていなければならない。この経路を経ても、現実主義と可能主義を同化させることができる。ひとつめの提示は、現実主義が可能主義を内に含む方向であったのに対し、ふたつめの提示は、可能主義が現実主義を内に含む方向であり、これもまた循環しうる。

 

9段落(282頁)

しかし可能な現実の現在は現実の現実の現在ではないから、可能主義が現実主義を内に含み切ることは究極的にはできないのだ、と、現実主義のアキレスが可能主義のカメに抗して主張したなら、そこからアキレスとカメのいつもながらの終わりのない闘争が始まる。しかし実際には、この闘争は、お互いが二段階説を認めて折り合えば、そこで早くも収束する。実際われわれはこの収束を生きている。

 

10~11段落(282頁)

「私」の存在に関する二つの基準についても同じことがいえる。誰でもが第一の基準によって自分を識別しているのであれば、その誰でもの中からこの基準を使って自分を識別することはできないことになる。ではどうやって識別しているのか。もちろん、現実にはそれしか与えられていない、という端的な事実によってである。他人も(言葉の上では)それと同じ事実によって同じことをやっていると言えるが、その種の同じさがはたらきうるような世界解釈が機能する以前の場所で、この基準ははたらかねばならない。しかしそれを他人に語れば、それは決して通用しない。さらにしかし、実際にその基準に従って「私」を適用し、「私は膝が痛い」とか「私にはあの壁が赤く見える」とか語るなら、それは問題なく通用し、「あなたはそうなのですね」とか「彼はそうなんだ」と理解してもらえる。言っている側は〈私〉のつもりで言い、聞いている側は、特定の生物から発せられた語として聞くからである。つまり、特定の「口」が、アキレスとカメをひとつにし、二種類の世界を架橋する。

 

12段落(284頁)

現在(今)についても同じことがいえる。A系列とB系列の区別にかんする第一基準と私の識別にかんする第一基準は対応している。それは、前の二段落で述べたのと同じはたらき方ではたらき、同じはたらかなさではたらかない。そしてそのことがその前の段落で述べた「収束」の実態である。アキレスの主張は、いわばつねに暗に認められる(ルイス・キャロルの「カメがアキレスに言ったこと」も同様であり、ここで「(現実の)私」と「(現実の)今」について言ったことが、そこでは「現実」そのものについて成立している。「Pである」とは「現実にPである」ということなのだが、このような仕方で現実性が暗に介入してくると、カメはそこからすぐにその現実性を剥奪し、それを次々と現実性ぬきの純粋に論理(ロゴス)的な連関の中に組み込んでいく)。とはいえそのことでカメが敗れ去ったわけではない。カメの要求をどこまでも認めて、他の私も他の現在も、自分と同じ基準を使って、それぞれの自分を他人や他時点から識別している、と認めることこそが言語(ロゴス)をもつことだからである。

 

13段落(285頁)

最後に念のため「現在が過去になる」についても同じことがいえることを確認する(「未来が現在になる」も同じ)。それはたしかに、どんな現在も未来においては過去である、という時間の前後関係についての不変の事実を述べているにすぎない、ともちろん言えはするのだが、それでもしかし、これが全く類例のない唯一の現実を語ることもまたできるのであり、できるのでなければならないわけである。

 

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【感想】

1.2~3段落

B関係はA変化を別の仕方で記述したもの。ただしここでA変化は「可能的なA変化」(8段落参照)。

 

2.5段落

「前者がすでに「それが現に存在している」という意味を(意味上)含んで成り立っているために、後者の現存在が「語りえぬもの」になる、という特殊なパラドクシカルな構造」(哲学探究2第5回より)

 

3.6~8段落

現実主義も表現されてしまえば可能主義に帰着するが、現実主義を前提しないことには可能主義を考えることもできない。これが累進構造を駆動する原動力だ。

自我(主観性、心・・)にも同じことが言えると言われている。

 

4.9段落

この収束を生きている!!

 

5.10~11段落

独在性は語れないが従っている、と言っている。
口が二種の世界を架橋する(言っている側は〈私〉として言い、聞いている側は、特定の生物から発せられた語として聞く)。
10段落の注で、「意識はなぜ実在しないのか」改訂版に触れて「意識は私秘性を実体化したものではなく、独在性をどこまでも相対化したもの」と言われている。とても重要だと思います。

また、308頁では「私秘性は、独在性の仮想的・形式的な適用によって成立する高度に抽象的な事象」とも言われています。これもとても重要だと思います。