永井均「存在と時間 哲学探究1」の要約と感想

このブログで私は、永井均という哲学者が書いた「存在と時間 哲学探究1」(文藝春秋)という本について、要約や感想を書いています。私は、哲学とか一度も勉強したことがなくて、哲学は全くのど素人なのですが、この本がすっごく大好きで、何回も繰り返し読みました。そして、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいな、と思って、このブログを書きました。人生においてすっごく大事なことがぎっしり詰まった本だと思います。特に、悩みや苦しみを抱えている人が読むと、その悩みや苦しみが消えてしまうかもしれません。

(無題)

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第16章 現実の動く現在

 

(無題)

【要約】

1段落(286頁)

「で、その動く現在は今はどこにいるんだい?」という問いに現われている「現在(今)」の矛盾は、「私」の第一基準を適用する際に現われる「私」の矛盾と同じ種類の矛盾である。つまり、この問いは、「で、その基準を使って識別できるたくさんの「私」たちのうち、この私はどいつなんだい?」という問いと同じ種類の問いである。つまり、なぜこれが今だとわかるかといえば、なぜか端的にそれだけが与えられて現にあるから、と言えるだけ、ということである。

 

2~3段落(286頁)

ところが、まったく同じことを他の時点の今も言うであろうから、これは実は答えになっていない。そういう今は、実在性(リアリティ)の観点からは、他の今とまったく同じものでしかなく、独特のところは皆無なのに、現実性(アクチュアリティ)の観点からは極めて独特(それしか存在していないという極限の独特)なのであった。これが無内包の現実性ということであり、われわれはその存在に対して(その語りえなさともども)ただ驚き(タウマゼイン)を感じることができるだけである。今回はこの点にまつわるいくつかの問題を検討する。

 

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【感想】

1.1段落

「で、その動く現在は今はどこにいるんだい?」

という問いに対比されるべきは

「で、その基準を使って識別できるたくさんの「私」たちのうち、この私はどいつなんだい?」

なのか、それとも、

「今、ウサイン・ボルトなんだい?」

なのか。

それともその両方なのか。

2.2~3段落

「言う」レベル(実在性(リアリティ)のレベル)での同じさ。
一方、そもそも驚くことはできるのか、という問題がある。他の今においても驚くであろうから、あるいは他の私も驚くであろうから、驚いたその驚きの対象は、実はすでに概念化されている、と言えないだろうか。

①言える、という解釈がある。この解釈によれば、この今のこの私の驚きも、概念化された現実性に対する驚きにすぎないから、どこまで行っても、「真の驚くべき対象」についての驚きではないことになる。

②他方、言えない、という解釈もありうる。この解釈によれば、他の今においては、あるいは他の私は、真に驚いてはいない(真に驚いているのは、この今のこの私だけ)ということになる。

つまり、この場合、「驚く-驚かない」という対比と、「〈驚く〉-驚く」という対比との混同があることになる。

成員の哲学的感度が高く、全員が驚いている世界は考えられるが、この私の〈驚き〉だけは特別。そのような世界における「〈驚く〉-驚く」の対比と、あまり驚く人がいない世界における「驚く-驚かない」の対比を混同してはいけない、ということになる。