第16章 現実の動く現在
(無題)
【要約】
1段落(286頁)
「で、その動く現在は今はどこにいるんだい?」という問いに現われている「現在(今)」の矛盾は、「私」の第一基準を適用する際に現われる「私」の矛盾と同じ種類の矛盾である。つまり、この問いは、「で、その基準を使って識別できるたくさんの「私」たちのうち、この私はどいつなんだい?」という問いと同じ種類の問いである。つまり、なぜこれが今だとわかるかといえば、なぜか端的にそれだけが与えられて現にあるから、と言えるだけ、ということである。
2~3段落(286頁)
ところが、まったく同じことを他の時点の今も言うであろうから、これは実は答えになっていない。そういう今は、実在性(リアリティ)の観点からは、他の今とまったく同じものでしかなく、独特のところは皆無なのに、現実性(アクチュアリティ)の観点からは極めて独特(それしか存在していないという極限の独特)なのであった。これが無内包の現実性ということであり、われわれはその存在に対して(その語りえなさともども)ただ驚き(タウマゼイン)を感じることができるだけである。今回はこの点にまつわるいくつかの問題を検討する。
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【感想】
1.1段落
「で、その動く現在は今はどこにいるんだい?」
という問いに対比されるべきは
「で、その基準を使って識別できるたくさんの「私」たちのうち、この私はどいつなんだい?」
なのか、それとも、
「今、ウサイン・ボルトは誰なんだい?」
なのか。
それともその両方なのか。
2.2~3段落
「言う」レベル(実在性(リアリティ)のレベル)での同じさ。
一方、そもそも驚くことはできるのか、という問題がある。他の今においても驚くであろうから、あるいは他の私も驚くであろうから、驚いたその驚きの対象は、実はすでに概念化されている、と言えないだろうか。
①言える、という解釈がある。この解釈によれば、この今のこの私の驚きも、概念化された現実性に対する驚きにすぎないから、どこまで行っても、「真の驚くべき対象」についての驚きではないことになる。
②他方、言えない、という解釈もありうる。この解釈によれば、他の今においては、あるいは他の私は、真に驚いてはいない(真に驚いているのは、この今のこの私だけ)ということになる。
つまり、この場合、「驚く-驚かない」という対比と、「〈驚く〉-驚く」という対比との混同があることになる。
成員の哲学的感度が高く、全員が驚いている世界は考えられるが、この私の〈驚き〉だけは特別。そのような世界における「〈驚く〉-驚く」の対比と、あまり驚く人がいない世界における「驚く-驚かない」の対比を混同してはいけない、ということになる。