世界の見方には二つの方向がある
【要約】
1段落(110頁)
私という異様なあり方をした生き物が存在することにも驚嘆するが、その同じ異様なあり方を他人たちにも認めて人称などという客観的なカテゴリーを作りだしてしまうというアクロバティックな荒業の存在に対しても驚嘆する。
2段落(111頁)
第二の驚嘆によって第一の驚嘆が消滅させられ、その結果として第二の驚嘆自身もなかったことになって消え去り、そうして出来上がった世界がこの世界である。そうしてみると、現実性が実在性に組み込まれる世界観と実在性が現実性に組み込まれる世界観の、二方向の見方が必然的に存在することになる。
3~6段落(112頁)
前者はごく普通の世界観であるが、〈私〉が組み込まれる余地がない。後者は超越論的統覚が客観的世界を構築しているという世界観で、通常からすると異様かつ余計な世界観だが、〈私〉が最初から組み込まれている。つまり現実性は実在性の内部に組み込まれることができず、自分の側に実在性を組み込むことによってしか存在を保持できない。それしか手段がないので、手持ちのなけなしの素材を使い、自分を包む客観的世界を作り上げる、これこそが超越論的の真の意味である。与えられた現実から出発しようとするならば、超越論哲学の立場に立つしかない。
7段落(113頁)
第一基準で同一性を保ちながら第二基準で別人になる、という想定は、記憶そのものも統合された一つのものでしかありえない、という理由から不可能であり、そのことからも、実在性が現実性をその内部に組み込むことができないことがわかる。
8~9段落(113頁)
逆に、第二基準で同一性を保ちながら第一基準で別人になることは、分裂の思考実験等から可能であることがわかる。つまり、実在性には現実性を統御するすべがない。実在性は、現実性を作り出すすべも、現実性が生じてしまうのを阻止するすべもない。だから、この世界を作り出すためには、無根拠に与えられた現実性の側がその内部から実在性を構築するしかない。無根拠な現実性としてなぜか存在してしまったこの私は、現象界に生き残った物自体のお零れのようなもの、なので、この世界の内部に自らをちゃんと実在させるためには、自ら超越論的統覚となる(そういう自己分裂を起こす)ほかはない。
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【感想】
2段落
他人の擬私化と自分の擬人化は、通常、両者がぴったり一致するまで累進的に進行するから、どこに一致点を見出すにしろ、「ガタついて納まりが悪い」という状態にはならない。
8~9段落
実在性と現実性からなる「この世界」を作り出すためには、実在性には現実性を統御するすべがない以上、現実性の側がその内部から実在性を構築するしかない。